谷地城 (やちじょう)
所在地 山形県西村山郡河北町谷地乙153 2015.6.12
谷地城 (やちじょう)
所在地 山形県西村山郡河北町谷地乙153 2015.6.12
東林寺山門
東林寺本堂
境内西の三社宮
東林寺庭園
白鳥十郎の墓
説明板
谷地城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 県道110号線より北に約100m行った東林寺(表記番地)[マップコード62 608 559*13]の庭園横に谷地城主白鳥十郎長久の墓がある。本丸中心は三社宮付近とされるが、遺構はほとんど残っていない。
三重の堀に囲まれた輪郭式平城である。本丸の規模は東西120m南北260mで、土塁で二分されていた。本丸外側は基底部幅14mの土塁で囲まれ、一の堀は幅30mであった。
二の丸は東西350m南北450mの長方形であった。二の堀は最大幅50m最小幅10mであった。
三の丸は旧谷地本郷をほぼすべて囲み、水堀跡の低地が残っている。
【歴史】 谷地城は弘治年間(1555~58年)中条(ちゅうじょう)長昌によって築かれたとされる。中条氏は武蔵七党横山党の一族であり、南北朝時代は北朝側として活躍し室町幕府に重きをなした。長国の頃、谷地に入り、長国-長政-長衡-長胤-長昌と北寒河江荘を支配するが、長昌で断絶した。
その後、永禄年間(1558~70年)の頃には谷地北方(村山市白鳥)の国人領主白鳥氏が勢力を伸ばし、白鳥城より移った。天正十年(1582年)頃まで白鳥十郎長久が城主として城郭を整備した。
天正十二年(1584年)六月七日、城主白鳥長久が最上義光に謀殺され、最上義光の攻撃を受けて落城し、最上氏配下斎藤光則(伊予守)が在城した。
慶長五年(1600年)慶長出羽合戦では庄内から侵攻した上杉軍の攻撃を受け九月十八日までに落城、下秀久の支配を受けた。十月一日関ヶ原の敗報に触れた本隊が撤退するも下秀久は籠城し、7日(11日とも)間の籠城戦の末降伏した。
その後最上氏の蔵入地として支配されたが、元和八年(1622年)最上氏の改易により廃城となった。