沼田城 (ぬまたじょう) (倉内城・蔵内城・霞城) (市の史跡)
所在地 群馬県沼田市西倉内町594 2013.8.28 2019.2.24
沼田城 (ぬまたじょう) (倉内城・蔵内城・霞城) (市の史跡)
所在地 群馬県沼田市西倉内町594 2013.8.28 2019.2.24
二の丸の土塁
二の丸・野球場
堀跡
本丸跡
鐘櫓
西櫓台石垣
古城跡
沼田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道274号線「商工会館前」交差点より北に約300m行った「沼田公園管理室」(表記番地)の南に駐車場が用意されている[マップコード183 530 245*62]。
本丸跡は現在花壇になっている。本丸の西に西櫓台の石垣石段が残る。
本丸の南東に幅24mに及ぶ堀跡が残っており、土塁を挟んで野球場となっている二の丸がある。
本丸の北に、天和元年(1681年)廃藩以前に使われた古城跡がある。
生方家住宅(表記番地)は、藩の薬種御用達の商家で昭和四十八年(1973年)移築、保存されている。
城跡は、昭和五十一年(1976年)3月30日、沼田市の史跡に指定された。
本丸跡に鐘櫓が復元されているが、この鐘櫓の鐘は後世のものではなく、寛永十六年(1634年)に真田信吉が鋳造させた「城鐘」そのもので、群馬県指定重要文化財となっている。
【歴史】 天文元年(1532年)沼田氏十二代顕泰(あきやす)が沼田城を築城し、幕岩城より移った。
1560年以前 山内上杉氏没落と後北条氏による上野進攻のなかで、どちらに属すかを巡り沼田氏がお家騒動を起こし、後北条方側が勝ち、後北条氏出身の沼田康元が城主となった。
永禄二年(1559年) 長尾景虎(上杉謙信)が越山し沼田城を落とした。沼田顕泰は沼田の国人(沼田衆)を率いる立場になったが、城は景虎の直属(城代支配)となった。
天正六年(1578年)謙信の死による上杉氏の跡目争い(御館の乱)に乗じて北条氏邦の支配となった。
天正八年(1580年) 真田昌幸が後北条氏方の城代の泰清に調略を仕掛け、また昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田に攻め入ってこれを無血開城させ、武田氏が沼田を支配下においた。同年、後北条方と由良氏の支援を得た、顕泰の子・沼田景義が沼田城奪還を目指して挙兵するが、昌幸の謀略により、泰清に殺害され、これによって沼田氏は滅亡した。
天正十年(1582年) 織田氏により武田氏が滅亡し、その功により上野一国を拝領した滝川一益の重臣・滝川益重の城となった。その後、本能寺の変を経て、後北条家に降った真田昌幸の支配となった。
直後に天正壬午(じんご)の乱が起こり、徳川氏と後北条氏の間で沼田領帰属問題が持ち上がるが、昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉氏の傘下に入った。これは後年の徳川氏との上田合戦や後北条氏による度重なる侵攻を招くことになるが、いずれも退けた。
天正十七年(1589年)豊臣秀吉の裁定により後北条氏の支配となり、猪俣邦憲が再び城代となる。しかし、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、天正十八年(1590年)豊臣氏による小田原征伐が行われた。
北条征伐の戦後処理において、沼田城は昌幸の長男・真田信幸が城主となった。関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくこととし、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで、東軍についた信幸(以降信之に改名)が上田領も継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩した(信之は引き続き沼田城を本拠とする)。
1615年大阪夏の陣を期に、信之は上田に本拠を移し、沼田城は、長男・信吉が城主となった。
元和八年(1622年)信之が松代藩13万石へ加増移封となった。沼田領は引き続き真田領とし、松代藩の分領となった。寛永十五年(1638年)信吉の死後、その嫡子である熊之助が跡を継ぐが早世し、信之の次男・信政(信澄)が沼田領を継承した。
明暦二年(1656年) 信之が隠居し、信政が松代藩藩主となり・沼田領は、信吉の子・信利が継承した。
万治元年(1658年)信政が死去し、その相続を巡ってお家騒動が起き、これを期に沼田領は沼田藩14万4千石(実質は3万石)として独立し、信利が初代藩主となった。
天和元年(1681年)信利の暴政と江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由に改易され沼田藩は廃藩にされた。以降元禄十六年(1703年)まで天領となった。天和二年(1682年)城が破却され、堀も埋められた。
元禄十六年(1703年)本多正永が入封し、沼田藩2万石として再興された。以降、黒田氏、土岐氏と沼田藩の藩庁として存続するが、城の本格的な復興はなされずに明治の廃藩置県に至った。
大正五年(1916年) 旧沼田藩士の久米民之助が城地を購入し、公園として整備。昭和元年(1926年)に沼田市へ寄贈され、現在は沼田公園となっている。