鹿倉城 (かくらじょう) (大湯鹿倉城)
最寄地 秋田県鹿角市十和田大湯下ノ湯51−8 2015.7.4
鹿倉城 (かくらじょう) (大湯鹿倉城)
最寄地 秋田県鹿角市十和田大湯下ノ湯51−8 2015.7.4
登り口にある城跡標柱・案内板
武家屋敷跡
虎口
本丸西曲輪
本丸
本丸の標柱・鎮魂之碑
鹿倉城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【感想】 大湯城の西方1km弱に位置し、大湯川に突き出た標高240mの丘陵先端部に築かれている。
激戦の行われた城で、本丸に鎮魂の碑が建てられている。
【案内】 県道66号線に面した市立大湯保育園(表記番地)の南、県道横に登り口がある[マップコード297 744 421*83](地図)。
大手道を200mほど登ると広い杉林の武家屋敷跡があり、3、4段に分かれている。更に北に200m行くと、虎口があり、段差2m位の二段になった本丸がある。
比高約50mの本丸には鹿倉神社、「鎮魂之碑」(裏面に碑文)、「大湯鹿倉城本丸跡」の標柱建てられている。北東に虎口があり、搦め手に通じている。
【歴史】 鎌倉時代、鹿角四天王の一人奈良氏の惣領が大湯氏を名乗り、居城して近隣に威を振るった。
永禄九年(1566年)檜山城主安東愛季(ちかすえ)の鹿角侵攻では、大湯四郎左衛門昌次は安東勢に味方した。
天正十九年(1591年)九戸戦役の際、九戸政実方に味方した大湯四郎左衛門昌次が、南部氏の武将大光寺光愛の包囲猛攻を受け、激戦の末落城した。
九戸城に逃れた四郎左衛門は、豊富秀吉奥州仕置軍の攻撃を受けて降伏し、九戸政実と共に捕縛され、頭人として、栗原郡三迫の豊富秀次本陣で処刑された。