駒ヶ嶺城 (こまがみねじょう) (臥牛城・駒ヶ嶺要害・駒ヶ嶺所)
最寄地 福島県相馬郡新地町駒ケ嶺清水1 2014.4.15
駒ヶ嶺城 (こまがみねじょう) (臥牛城・駒ヶ嶺要害・駒ヶ嶺所)
最寄地 福島県相馬郡新地町駒ケ嶺清水1 2014.4.15
登城ルート
登り口
二ノ舘
本丸虎口
本丸・案内図
本丸跡
西館の間の空堀・土橋
西舘
駒ヶ嶺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 国道6号線「駒ケ嶺」交差点より西へ約500m行き、右折し道なりに約250m、道路が一番高くなった地点にある稲荷神社の朱鳥居先に若干の駐車スペースがある。
そこより東に60mほど行き、民家脇の「臥牛城趾」標識を北に折れ、道なりに100mほどの地点から「臥牛城趾」標識の登り口がある[マップコード332 050 705*31](地図)(民家へ続く狭い道路で徒歩が良い)。
「本丸入口」の石碑のある土橋を登る。東に三ノ舘、西に虎口を経て植栽のある本舘があり、さらに西に空堀・土橋を経て西舘(二ノ丸)、本舘の南の竹林に二ノ舘がある。本舘に手作りの「臥牛城案内図」や「報恩碑」(城跡碑)があり、城跡の由来の看板がある。土塁、空堀、土橋、曲輪が確認できる。
【歴史】 永禄年間(1558~70年)に、相馬盛胤が伊達氏への防衛網を強化するために築き、藤崎摂津守を城代として置いた。
天正十七年(1589年)五月に、伊達政宗の家臣・亘理重宗が駒ヶ嶺城を攻略すると、政宗は黒木宗俊を城主とした(後に桜田元親と交代した)。
この時に政宗が獲得した宇多郡北部(現:新地町)は幕末に至るまで仙台藩の所領となり、駒ヶ嶺城は浜通りの伊達領最南端の城砦となった。
慶長二十年(1615年)の一国一城令により、「駒ヶ嶺要害」と名称変更され、宝暦年間(1751~64年)には、降格され要害の下の「所」扱いとなった。
徳川藩政期には新田下総を経て、正保元年(1644年)には富塚長門守重信が、享保三年(1718年)には宮内定清が城主となり、以降は宮内氏が幕末まで城主を務めた。
陸前浜街道が城の東側と南側に沿って進み、城の南側の町屋敷が駒ヶ嶺宿となっている。宿場の西側に境目番所があり、町屋敷の南側には川を挟んで足軽屋敷が建ち並び、防衛線を形成していた。
慶応四年(1868年)の戊辰戦争の際には、仙台藩の浜通り方面軍の本営が置かれたが、八月六日に相馬藩が薩長方に降ると、翌七日には薩長軍が駒ヶ嶺城攻めを開始、十一日には相馬・久留米藩兵等の攻撃により炎上陥落した。
仙台藩は十六日と二十日の二度にわたって奪還作戦を仕掛けたが、いずれも失敗に終わった。