角館城 (かくのだてじょう) (小松山城)
所在地 秋田県仙北市角館町古城山 2017.10.28
角館城 (かくのだてじょう) (小松山城)
所在地 秋田県仙北市角館町古城山 2017.10.28
登城ルート(緑線は車道)
登り口の城跡標柱
二の郭・四阿
三の郭
空堀状の大手
本丸
小松山城址碑・供養塔
武家屋敷通り
角館城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【感想】 桧木内川左岸の標高165.7mの古城山頂上に本丸、南西に2郭、北に3郭が配置されている。南西側山麓に武家屋敷群が残され、観光地となっている。
【案内】 国道341号線「武家屋敷入口」交差点より200mほど東に行き左折して間もなく駐車場が用意されている[マップコード280 367 205*66](地図)。
城跡碑のすぐ先の階段を登ると、四阿のある2郭に出る。その上段が本丸で広く、中央に小松山城址碑・供養塔が建てられている。
北側に大手があり、空堀状の虎口となり、その北に3の郭がある。
【歴史】 応永三十一年(1424年)、戸沢氏13代家盛は北浦郡の門屋城から角館城へ移った。
居城移転には諸説があり、『戸沢家譜』には、戸沢氏重臣で小松山城主の角館能登守が上浦郡の小野寺氏と通じて謀叛を起こしたので、戸沢家盛がこれを討って小松山城を開城させ、後に居城を移転したとある。
その後、戸沢氏は北浦郡内の国人領主の仙北前田氏、本堂氏、楢岡氏を傘下に組み込んだ。天正年間に活躍した当主戸沢盛安は、「鬼九郎」(夜叉九郎)の異名で呼ばれた。
関ヶ原の戦い後の慶長七年(1602年)21代政盛は常陸松岡藩(松岡城)に移封となり、そのあとに入部した蘆名義広(盛重)が角館城主となり、現在の角館の元となる町割を行った。
元和元年(1615年)の一国一城令発令に伴い元和六年(1620年)に廃城となった。
のちに城主は麓の屋敷に居住し、防衛のための町割りを行ったとされている。
明暦二年(1656年)、蘆名氏が断絶すると佐竹義隣が出羽長野紫島城から角館へ入部し、以後、明治維新まで佐竹氏が代々続いた。
現在、角館城南側一帯は蘆名氏や佐竹氏家臣たちによって造られた侍屋敷が建ち並び、「みちのくの小京都」と呼ばれている。