猪苗代城 (いなわしろじょう) (亀ヶ城)
最寄地 福島県耶麻郡猪苗代町古城町132-7 2013.11.9
猪苗代城 (いなわしろじょう) (亀ヶ城)
最寄地 福島県耶麻郡猪苗代町古城町132-7 2013.11.9
大手虎口石垣
三本杉井戸
二の丸石垣
二の丸跡・石垣
本丸跡・土塁
猪苗代城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 「図書情報歴史館」(表記番地)の東側道路を100mほど北に行くと、駐車場が用意されている[マップコード413 238 000*80]。大手門跡石垣があり、虎口の石垣の状態は良い。
「亀ヶ城址公園」となっており、二ノ郭には北向きに野口英世の胸像がある。本丸は土塁も高く完全な形で残っている。磐梯山をのぞむ公園は紅葉の時期で、行楽客で賑わっていた。
南東の平地の公園には放射能測定装置がおかれ0.099マイクロシーベルトを示していた。浜通りに比べかなり低い。ちなみに埼玉は0.05位である。
【歴史】 奥州合戦で会津を与えられた相模国の御家人佐原義連の孫経連が鎌倉時代初期に築城したとされる。
経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、義連の子孫・蘆名氏は会津を治めた。
天正十七年(1589年)摺上原の戦いの直前、城主猪苗代盛国が伊達政宗と内応し蘆名氏を滅亡に追い込む事となった。
豊臣秀吉の奥州仕置で伊達政宗が会津を離れると盛国も猪苗代を離れ、約400年に及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。
その後会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続くが会津の重要な拠点として一国一城令の際も存続が認められ、城代が置かれた。
慶応四年(1868年)戊辰戦争の母成峠の戦いで新政府軍が勝利し会津へ侵攻すると城代・高橋權大夫は城を焼き払って会津へ撤退した。