源範頼館 (みなもとのりよりやかた) (県の史跡)
所在地 埼玉県比企郡吉見町御所146-1 2015.1.28
源範頼館 (みなもとのりよりやかた) (県の史跡)
所在地 埼玉県比企郡吉見町御所146-1 2015.1.28
北西側堀
案内板・石碑
南側堀
本堂裏
源範頼館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 息障院(そくしょういん・表記番地)の敷地となっている[マップコード14 459 396*86]。空堀が周囲に残っている。
【縁起】 開創は古く天平年中(730年ごろ)行基菩薩によると云われている。また、大同年中(806年頃)征夷大将軍坂上田村麻呂の開基とも伝えられる。古くは吉見護摩堂と称し、天慶の乱の折、平将門調伏の護摩を修し、その功により息障院の号を下賜された。
現在の境内地は源範頼の館跡と云われ、県の指定旧跡となっている。当山の全盛期は、戦国末期から江戸時代で、末寺120余ケ寺を数え、隆盛を極めていた。
真言宗智山派に属し、岩殿山息障院光明寺と称し、本尊は不動明王であり、平安時代末から鎌倉時代のもので定朝様式を伝える傑作と云われ、県の有形文化財となっている。『息障院説明板』
【歴史】 源範頼は河内源氏の流れを汲む源義朝の六男で久安六年(1150年)に生まれた。母は池田宿(磐田市)の遊女であり、源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄でる。
寿永三年(1184年)一月、頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛し、先に西上していた義経の軍勢と合流して宇治・瀬田の戦いに参戦した。
寿永三年(1184年)二月五日に始まった一ノ谷の戦いでは、範頼は大手軍を率いて進軍し(宇治川の戦いで率いた三万の兵士を基幹としたと思われる)、また義経は1万の搦手軍を率いて進軍した。
六月、範頼は戦功により三河守に任じられ、建久四年(1193年)八月の失脚に至るまで最高責任者として同国を支配した。
壇ノ浦合戦後、範頼は頼朝の命により、九州に残って天叢雲剣の捜索と平氏の残存勢力や領地の処分など、戦後処理にあたった。
建久四年(1193年)八月十七日、伊豆国修善寺に幽閉される。
『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。
『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比丘尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。