府中城 (ふちゅうじょう) (府中陣屋)
所在地 茨城県石岡市総社1‐2‐10 2015.2.21
府中城 (ふちゅうじょう) (府中陣屋)
所在地 茨城県石岡市総社1‐2‐10 2015.2.21
土塁・説明板
土塁・市民会館
常陸国府跡碑・資料館
土塁・箱式石棺
陣屋門
府中陣屋跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 府中城三の丸跡は石岡小学校(表記番地)の敷地となっており、北東の正門付近に土塁が残っている。北の土塁上に「常陸のみやこ一千有丗余年之地」の石碑が建てられている。
土塁の南側に「常陸国府跡」の石碑、説明板が建てられ、約1500年前の箱式石棺が移築展示されている。
土塁の東、石岡市民会館の駐車場前に陣屋門が移築されている。昭和五十三年(1978年)8月23日、石岡市の史跡に指定された。
府中城の本丸は、西側台地の上にあり、住宅地となっている(地図)。道路の左側に空堀跡が残っている。二の丸は、本丸と三の丸の中間にあった。
【歴史】 府中城は正平年間(1346~70年)大掾詮国(だいじょうあきくに)により築造されたと云われている。
天正十八年(1590年)十二月大掾清幹(きよもと)が佐竹義宣に攻められ、落城した。落城後は、義宣の叔父・佐竹義尚(よしひさ)が城主となり、慶長七年(1602年)佐竹氏の出羽国秋田へ国替後、六郷政乗がこれを領した。
元和九年(1623年)六郷政乗は出羽国本荘城へ移された。替わって皆川氏が1万石で入るも3代で嗣子なく断絶し、しばらく天領となった。
その後、元禄十三年(1700年)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋をおいた。規模は東西約500m、南北約400mで、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、堀・土塁を巡らせた堅固な城であった。『石岡市教育委員会説明板』より。