木原城 (きはらじょう) (神越城)
最寄地 茨城県稲敷郡美浦村木原1567 2014.1.26
木原城 (きはらじょう) (神越城)
最寄地 茨城県稲敷郡美浦村木原1567 2014.1.26
登城ルート(緑線は車道)
2郭跡(南側)
本郭東の土橋
本郭南東の空堀
虎口土塁
本郭跡・城址公園
稲荷神社
木原城 本曲輪跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 霞ヶ浦南の「美浦村立木原小学校」(表記番地)の西に位置し、2郭に城址公園駐車場が用意されている[マップコード65 680 040*88]。
本郭 は高さ4m位の土塁に囲まれ、曲輪は芝、花畑や展望台、滑り台のある城址公園となっている。
本郭 には巾2m深さ1mの堀が発掘され、現在は埋め戻され「堀の道」として残されている。展望台より北に美浦村の田園風景や遠く筑波山が望める。
本郭 の東方隅の高台に稲荷神社がある。また、本曲輪南東に虎口土塁・土橋及び深さ3~5mの空堀が良好な状態で保存されている。
空堀の南に2郭(地図)があり、南側を囲んで土塁が残っている。さらに空堀を挟んで3郭があり、畑、木原小学校用地などに利用されている。
【歴史】 永正元年(1504年)に居城を失った土岐氏の家臣・近藤氏元が木原城に入った。永正3年(1506年)に近藤義勝が城主になった。
永禄5年(1562年)土岐治美が改修をし、近藤義勝が城の守備を任された。
天正2年(1574年)に小田氏の家臣で上条城主・江戸崎監物が寝返り木原城を攻め近藤氏を亡ぼした。
さらに天正11年(1583年)に常陸国の大半を支配していた、佐竹義重、佐竹義宣、蘆名盛重らの軍に攻められ、また落城した。
天正18年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、勢力を失った土岐氏の城は、秀吉の家臣となった佐竹義重に降伏し、翌年蘆名盛重が支配するようになった。
関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603年)に徳川家譜代で、本多正信や内藤清成らと並んで関東総奉行を務めた青山忠成の所領になり、江戸崎城に江戸崎藩を立藩するが、元和8年(1622年)江戸崎藩の廃藩と共に、木原城も廃城になったと考えられる。