山田城 (やまだじょう) (根小屋城)
最寄地 栃木県矢板市山田1352 2015.2.14
山田城 (やまだじょう) (根小屋城)
最寄地 栃木県矢板市山田1352 2015.2.14
登城ルート
入口(左側)
主郭南側空堀
主郭・土塁
主郭北側空堀
二の郭・土塁
二の郭北の空堀
山田城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 表記番地の左側の未舗装の道が入口となっている[マップコード121 307 456*12](地図)。説明板等はない。東約60mに「甦る郷土」と刻まれた石碑がある。
入口より、西に少し行き、右に少し登ると、墓地がある。さらに右に登ってゆくと三重の空堀がある。その北に比高約40mの主郭があり、土塁が残り、井戸跡と思われる窪みがある。北に、空堀があり、二の郭がある。その先に空堀がある。東約800mに箒川が流れている。
[歴史] 平安末期に山田八郎兼利によって築かれたとされる。一方、文明・長享(1469~89年)ごろに、塩谷孝綱の城代・山田泰業による築城と推測とする見解もある。ただし山田八郎の一族は文明・長享より前の応永年間(1394~1428年)に活動記録が見える。
山田八郎兼利築城説によると、兼利が築城した山田城は、その子孫の山田八郎家が代々城主となったという。
応永十年(1403年)8月には、山田八郎家が、中禅寺に法華経を寄贈するなど、山田八郎家は、塩谷氏の重臣として山田城を中心に繁栄した。
その山田氏の主君である塩谷氏が、文明十年(1478年)正月18日に宇都宮氏より孝綱を養子に迎えると、その付家老としてやってきた山田筑後守泰業が城主となった。
天正十二年(1584)8月初め、山田辰業(山田泰業の孫)は主命により那須氏領の薄葉、平沢を攻めた『那須記』。
これに対して、那須方の福原資孝、資広父子が出陣し、山田勢は退却するが、この時、深い遺恨を残すことになった。翌年3月、薄葉ヶ原合戦が勃発、宇都宮勢二千五百余騎、那須勢一千余騎が薄葉ヶ原で激突し、この戦いで先鋒の総大将として出陣した辰業は、3月25日、那須勢の蘆野資泰の陣に突撃し、神田次郎に討たれた。
その後、那須勢は、薄葉ヶ原に接する山田の地に攻め入り、山田城を落城させ、山田城はそのまま廃城となった。
この時、城には家老の山田新左衛門と辰業の正室菊の前がいて城を脱出したものの、新左衛門は菊の前を逃がすために討死し、菊の前も11人の侍女たちと共に太鼓岩と呼ばれる崖の上から下を流れる箒川に向かって投身、自害し、山田一族は城とともに滅亡した。