白岩城 (しらいわじょう)
所在地 山形県寒河江市白岩1862 2015.6.12
白岩城 (しらいわじょう)
所在地 山形県寒河江市白岩1862 2015.6.12
登城ルート
白岩公園入口(すぐ先を左へ)
八幡神社
主郭・櫓台
櫓台
南西側空堀
白岩城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 八幡神社(表記番地)の脇に白岩公園入口がある[マップコード407 867 894*61] 。
その北に主郭、櫓台があり、「忠魂碑」「至誠一貫」の石碑が建てられている。南西側に空堀(竪堀)が残っている。
東西約230m南北約80m長方形の高台(標高165m比高約20m)にある。六十里越街道(現月山道路)を抑える役割を果たした。
【歴史】 斯波兼頼との争いで父・大江元政を失った大江時茂は、南北朝の争乱に備えて寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、白岩の地には嫡男・溝延茂信の子・政広を配した。2代 明代、3代広茂と続き、4代・白岩満教を溝延氏から迎えると、両者は関係を強めながら次第に自立性を高め、領主権を拡大した。
5代満広、6代宗広、7代広隆、9代広教と続いたが、戦国時代末期寒河江氏滅亡と前後して最上氏に下り松根光広を養子として迎えた。
慶長五年(1600年)の慶長出羽合戦では庄内から六十里越街道(現月山道路)を経て侵入した下秀久に攻め落とされた。
元和八年(1622年)最上氏が改易になると、白岩には旗本・酒井忠重(庄内藩主・酒井忠勝の弟)が入った。
しかし忠重は苛政を布き、寛永十年(1633年)には白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える事態となった(白岩一揆)。これが原因となり、寛永十五年(1638年)に酒井忠重は改易された。その後、白岩領は幕府領となり、代官の支配下に置かれた。