笹下城 (ささげじょう)
最寄地 神奈川県横浜市港南区笹下4-11-5 2016.1.27
笹下城 (ささげじょう)
最寄地 神奈川県横浜市港南区笹下4-11-5 2016.1.27
空堀
成就院
空堀・説明板・山門
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 県道22号線「打越」交差点の南西より行った成就院山門左の墓地擁壁に「笹下城の空堀跡」(平成十六年五月)の説明石板が設置されている[マップコード8 492 217*54] (地図)。
墓地南側の最高所を中心に城跡があったとされ、発掘調査する間もなく洋光台の宅地開発で消滅している。
成就院の北や説明板の前の道は空堀跡とされる。また同院裏山には土塁のような地形を認めるが、明確な遺構は望めない。
この一帯は、山あり谷ありで幾筋もの川が流れ、このような自然の地形を利用した造りは「谷津(戸)構え」と呼ばれている。
【歴史】 間宮氏は在地武士で、古河公方・足利成氏の被官を勤めた。その後、後北条氏の北条早雲に従って、山内・扇谷上杉氏との戦いで戦功を立て、「相模衆十四家」の筆頭とされた。
両上杉氏に備えるため間宮信盛が、現在の京浜急行川崎駅に近い堀之内に館を築いた。
しかし、上杉氏が徐々に勢力を失い、北関東へと退いて行き、代わって房総の里見氏の水軍が、しばしば金沢や磯子に上陸して来るようになったため、信盛の子・豊前守信元が笹下へ移り、笹下城を築いた。
信元は笹下城の他に、杉田陣屋、森陣屋、氷取沢陣屋、更には港南区の中登台に松本城を築いた。
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐に際し、間宮一族は山中城に詰め、見事な戦いぶりであった為、徳川家康は笹下に残っていた間宮氏の中から多くの者を家臣に取立てた。
後世、其の一族から間宮海峡を発見した間宮林蔵や、オランダ医学を我が国に移入した杉田玄白などの人物を輩出した。『成就院説明板』より。