伽羅御所 (きゃらのごしょ)
最寄地 岩手県西磐井群平泉町平泉伽羅樂9 2014.8.16
伽羅御所 (きゃらのごしょ)
最寄地 岩手県西磐井群平泉町平泉伽羅樂9 2014.8.16
説明板
入口の伽羅御所跡標柱
伽羅御所跡説明板
空堀跡・説明板(御所への道)
伽羅御所跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道110号線に面した商店街に「伽羅御所跡入口」の標柱が建てられ、東に60m行った交差点の角に「伽羅之御所跡」の説明板が建てられている[マップコード142 254 498*65](地図)。
北上川右岸の柳之御所の南にあり、現在は宅地や畑となり、僅かに内堀跡や土塁の跡や、遺跡の井戸跡から金銀の蒔絵箱に納められた和鏡が見つかっているが、民家が密集している地域のために大規模発掘調査を行うことができず詳細は不明である。
隣接する奥州市の歴史公園「えさし藤原の郷」では伽羅御所が推定復元されており、平安時代の寝殿造の様式を再現した日本唯一の建造物となっている。
【歴史】 『吾妻鏡』文治五年(1189年)九月十七日条によると「無量光院東門構一郭号伽羅御所、秀衡常居所也。泰衡相継之、為居所焉。」(無量光院の東門に一郭を設け伽羅と号す。秀衡が常の居所なり泰衡相継ぎて居所となりけり。)と記述されている。
奥州藤原氏3代秀衡が嘉応二年(1170年)五月二十五日、鎮守府将軍・陸奥守に任ぜられたことで、初代清衡の代からの奥州藤原氏の居館であった柳之御所が政庁・平泉館として大改修されることとなり(柳之御所遺跡の遺跡発掘調査の結果からも明らかとなっている)、 藤原秀衡が柳之御所の南西に新たに伽羅御所を建築したものと推測される。
以後4代泰衡の代まで藤原氏の居館として使用され、藤原氏の子息たちの屋敷も周囲に立ち並んでいた。
文治五年(1189年)源頼朝は28万4千騎という大軍を以て平泉を攻め、4代藤原泰衡は鎌倉軍を迎え撃つべく総帥として国分原鞭楯(現仙台市青葉区国分町周辺)を本営としていたが、八月十一日、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、平泉を放棄して中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れた。八月二十一日、平泉は炎上し華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。
頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は蝦夷地(夷狄島)へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、九月三日に次郎に裏切られて殺害された。享年二十五、もしくは三十五。
九月六日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬罪した。
泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられた。泰衡の首は間もなく平泉に戻されて黒漆塗りの首桶に入れられ、父秀衡の眠る中尊寺金色堂の金棺の傍らに納められた。