水久保城 (みずくぼじょう) (水窪城)
最寄地 福島県南会津郡只見町只見根岸2358 2014.7.22
水久保城 (みずくぼじょう) (水窪城)
最寄地 福島県南会津郡只見町只見根岸2358 2014.7.22
只見駅にある推定復元図
登城ルート
城跡北直前の林道
北郭・電源開発㈱無線塔
主郭・福島テレビ
主郭・城址標柱
只見町遠景
水久保城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高320m】
【案内・感想】 標高705mの要害山頂上に築かれ3つの郭から構成されている。
国道252号線に沿った県立只見高校(表記番地)の北50mより西に林道をゆく[マップコード604 368 798*47](地図)。
途中600m付近から車は通行不能となる為、早めに路肩に駐車し残り約1000mを徒歩で登る。
北に約15m四方の北郭があり、電源開発㈱の無線塔が建っている。南に堀切で隔てられた同規模の主郭、南郭があり、主郭には福島テレビの電波塔が建てられ、「水久保城址」の標柱が建てられている。そのため原形は損なわれ、他に標識などはない。
【説明】 かっての水久保城は、①山頂の平場を中心とした本城域、②東側尾根上に形成された腰曲輪跡及びその先端の中城域、③本城域の北側続きに位置する大手口地域、④南側尾根上の腰曲輪や物見台からなる南尾根遺構群、⑤本城の南東部の出丸及び東側に突き出た出城、の五カ所に大別できる
本城域は本郭や西郭、南郭、北郭などの曲輪跡と空堀や土塁、枡形虎口の跡が残されており、城の中心部分であったことが窺われる。
その他の地域にも竪堀などの戦国城館の遺構が見られるが、大手口地域と中城域に崩壊した石垣と思われる石積群が残されているのがこの城の特徴でもある。
このことから、おそらく奥州仕置以降の蒲生氏・上杉氏時代に修築された可能性もあるという(只見町教育委員会『戦国の山城・水久保城の遺構』より)。
【歴史】 水久保城のある只見川一帯は、戦国時代は山内氏という豪族の支配する地域であった。山内氏は蘆名氏に臣従しており、現在の金山町にあった中丸城を本拠としていた。
天正十七年(1589年)、摺上原の戦いにおいて、会津領主の蘆名義広は伊達政宗に敗れ、会津盆地は政宗の支配するところとなった。しかし、山内家の当主・山内氏勝は政宗に反抗し、そのため、政宗は大軍を中丸城へ派遣し、中丸城は落城した。
氏勝は、水久保城へ逃れ、抵抗を続けた。氏勝には、豊臣秀吉の意を受けた隣国越後国の上杉景勝の家宰・直江兼続から援軍と武器・食料が送られ、そのため氏勝は伊達軍に対して頑強に抵抗することができ、翌年の奥州仕置までついに政宗に降伏することはなかった。
この時、氏勝には石田三成から書状が送られており、その内容を要約すると、「北条氏を攻め滅ぼした後はすぐに黒川城に攻め入り、政宗の首を刎ねるのでもう少し待っていてください。大沼郡伊北(山内氏の本領。現在の只見川流域)の地が弟・大覚助殿の所領であるということは重々承知致しました。その件については関白様へ言上して許可を得、御朱印をお送りいたします。そちらのご様子が心配ないので取り急ぎこの書状でもってお知らせいたします。」というものである。
しかし、天正十八年(1590年)の奥州仕置では、会津は蒲生氏郷の所領となり、山内氏は上杉景勝の被官と見なされて所領は没収されてしまった。
水久保城はこの時に廃城となったと思われるが、城跡遺構には、この時代より後の技法もあり、蒲生氏・上杉氏時代に修築された可能性も否定できない。