滝沢城 (たきざわじょう)
最寄地 秋田県由利本荘市前郷滝沢舘132 2016.8.6
滝沢城 (たきざわじょう)
最寄地 秋田県由利本荘市前郷滝沢舘132 2016.8.6
外掘・説明板
土塁・二の丸跡碑
前郷小学校記念碑
本丸跡の標柱
滝沢城 二の丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 前郷小学校跡地(表記番地)の西側に水堀と土塁が残り、二の丸の標柱、説明板が建てられている[マップコード231 508 758*53] 。
現在空き地となっているが、大正二年から平成十五年まで前郷小学校の敷地となっていた。
小学校の東、道路を隔てて本丸跡があり、標柱が建てられている。現在土砂が置かれていた。
【歴史】 関ケ原の戦いに勝利した徳川家康はその功績を讃えて、山形城主最上義光に由利一郡を与えた。
由利氏の子孫である滝沢刑部は、最上氏に臣属していたため、滝沢郷1万石の領地が与えられ、名を政道と改めて、慶長八年(1603年)この地に下向した。
滝沢城は、この兵庫頭政道が郷内19ヶ村の百姓を集めて協議し、その協力を得て、4年の歳月を経て慶長十一年(1606年)に完工し、八月に竣工祝いを行うと共に居住した。
元和八年(1622年)最上氏はお家騒動のため、徳川幕府より改易処分を受けた。これに伴い、同年九月十日、臣属していた滝沢氏は「除封令」(領地没収)を受け、更に同年十月八日本荘城(現 本荘公園)と共に「破却令」を受けた。城主は政道の弟、五郎であり滝沢兵庫頭政範と称していた。
4年の歳月を費やして築城した滝沢城は、わずか竣工後16年で廃城となった。