溝延城 (みぞのべじょう)
最寄地 山形県西村山郡河北町溝延本丸8−1 2015.6.12
溝延城 (みぞのべじょう)
最寄地 山形県西村山郡河北町溝延本丸8−1 2015.6.12
城址公園・門・城址碑
説明板
城址公園内
溝延長老の墓
溝延城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「紅寿の里」(表記番地)の南西、バス停「城址公園」の南、本丸跡に城址公園となっている(地図)[マップコード62 517 082*50]。東側に冠木門が建てられ、「史蹟溝延城址」の石碑、説明板が建てられている。
公園全体に回の字形の本丸、堀、二の丸が模擬的に再現されている。「藝国太守溝延長老」と刻まれた墓がある。
本丸の規模は東西145m・南北160m、二の丸は東西312m・南北300mでほぼ方形をであったが、現在住宅地となり遺構は残っていないという。
【歴史】 南北朝時代、寒河江城の支城として築かれ、寒河江氏(大江氏)7代時茂の長子茂信が初代城主となり、溝延氏を名乗った。時茂の三男元時は左沢楯山城主となっている。
その後、2代家広、3代元家が継いだ。室町時代中期、4代溝延満教は弱体であった白岩城に入って城を強化するとともに、溝延には叔父尊広の子孝満を5代にし、実権を城代安孫子伊代に与えた。その後6代広勝、7代孝政と続いた。
天正十二年(1584年)寒河江氏と共に、最上氏によって滅ぼされ天正年間、廃城にされたという。その際、城代安孫子紀伊は出家し溝延長老として慈恩寺に身を置いていた所、密告され最上勢に殺されたという。