白鳥城 (しろとりじょう)
最寄地 山形県村山市長善寺293−2 2016.6.10
白鳥城 (しろとりじょう)
最寄地 山形県村山市長善寺293−2 2016.6.10
登城ルート(緑丸は二の丸/緑線は車道)
南東麓の白鳥長久碑(左)
大空堀
帯郭
本丸・白鳥城址碑
二の丸
白鳥城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 国道347号線より県道300号線に入り、100m西を右折、200m北に行くと、市立戸沢小学校(表記番地)があり、その北側に駐車場が利用できる[マップコード62 879 097*48]。
駐車場の西に「白鳥長久公顕彰碑」の石碑が建てられている。北東隅より少し行き左折、道なりに登ってゆくと左に三の丸があり、上段に本丸跡がある。
本丸の西に大空堀があり、土塁が一部残っている。四阿、「白鳥城址」の石碑、説明板が建てられている。
北東に下ってゆくと駐車場があり、東に二の丸跡がある(地図)。駐車場は北東麓の白鳥不動尊前から登るもう一つのルートの終点となっている。
【歴史】 白鳥氏は、前九年の役(1051~62年)で源頼義・義家父子に討たれた安倍頼時の八男・安倍行任(ゆきとう)が岩手県伊沢郡白鳥村から逃れて、出羽の葉山山麓に潜伏し白鳥冠者八郎と名乗ったのが始まりと云われる。後に、山下に居館を構え白鳥郷と名付け、代々白鳥氏と称した。
また、寒河江大江氏、谷地中条氏の一族という説や、白鳥郷の館主として勢力を伸ばした国人領主との説もある。
白鳥氏が史上に現れるのは、南北朝時代からで、応永九年(1402年)鎌倉公方と伊達政宗(9代当主)の戦いでは、最上氏、大江氏共に鎌倉公方方に付いた。
『羽陽北仙伝記』によれば、戦国時代の永正九年(1512年)山形城主最上義定が北進の挙に出た時、白鳥氏は義定に属して出陣したと記されている。
白鳥氏は葉山修験の勢力を背景に寒河江大江氏と共存しながら、最上川西側一帯に勢力を伸ばした。
天文十一年(1542年)伊達稙宗・晴宗父子が争った「天文伊達氏の乱」の際に、白鳥十郎長久が最上家援軍との仲介の労を取ったことが知られる。
永禄年間(1558~70年)頃、白鳥十郎長久は谷地城に移り勢力を拡大し、天正二年(1574年)には、最上義光(よしあき)と最上義守・伊達輝宗連合軍の戦いを和解に導いた。
勢力を拡大する白鳥氏に対して、最上義光は十郎長久の排斥を目論むようになり、天正十二年(1584年)は謀略を図り十郎長久を山形城に招いた。義光は病を装い御寝所に案内し、一巻の書を差し出した。長久がそれを受取ろうとした時、貫打にて斬殺した。
その後、最上義光によって谷地城、寒河江城は攻め滅ぼされ、白鳥氏一族郎党は滅亡した。