松前城 (まつまえじょう) (福山城) (国の史跡・日本100名城3)(日本さくら名所100選)
所在地 北海道松前郡松前町松城129 2011.8.11 2014.8.5
松前城 (まつまえじょう) (福山城) (国の史跡・日本100名城3)(日本さくら名所100選)
所在地 北海道松前郡松前町松城129 2011.8.11 2014.8.5
堀・橋・搦手二ノ門
本丸御門
復元天守
本丸跡・表御殿玄関碑
復元搦手二ノ門
歴代藩主の墓
福山城本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 石垣、曲輪が良く残り、また本丸御門(重要文化財)が築城当時のまま現存する。
三層天守(1961年鉄筋コンクリート造)が外観復元され松前城資料館となっており、駐車場が用意されている[マップコード862 058 194*71]。
また搦手二ノ門(2000年復元)、天神坂門(2002年復元)が再建されている。また北西約300mに松前藩屋敷が再現され公開されている。
昭和十年(1935年)6月7日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日日本100名城(3番)に選定され、平成十八年(2006年)7月28日「松前氏城跡」として指定された。
【歴史】 今から七百年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終り頃には和人政権の拠点となっていた。
長禄元年(1457年)武田信広はコシャマインの乱を平定し蛎崎家を継ぎ、その子光広以降代々福山に館が出来るまで大館を居城としていた。
5代慶広の時松前氏に改め、慶長九年(1604年)幕府より蝦夷地の支配権を認められ松前藩が成立した。
松前慶広は慶長五年(1600年)から慶長十一年(1606年)にかけて福山に陣屋を築き、大館より移った。
その後六世盛広、七世公広、八世氏広、九世高広、十世矩広、十一世邦広、十二世資広、十三世道広、十四世章広、十五世良広、十六世昌広、十七世崇宏、十八世徳広、十九世修広(ながひろ・子爵)と続いた。
ロシア艦隊が来航すると、北辺の守りを固めるため、嘉永二年(1849年)幕府は松前家十七世(松前藩十三代藩主)松前崇宏に福山陣屋の改築を命じ、安政元年(1854年)福山城が竣工した。
城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、三層櫓一、二層櫓三、城門十六、砲台七であった。
明治元年(1868年)戊辰戦争で敗走した旧幕府軍により攻められ落城した。明治八年(1875年)、天守、門等本丸の施設を残して破却された。
昭和十六年(1941年)5月8日に天守、本丸御門、本丸御門東塀が国宝保存法に基づき当時の国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたものの、昭和二十四年(1949年)6月5日、城跡にあった松前町役場からの出火が飛び火して天守と本丸御門東塀は焼失した。