高久館 (たかくたて) (八幡館) (町の史跡)
最寄地 茨城県東茨城郡城里町大字高久403 2020.6.20
高久館 (たかくたて) (八幡館) (町の史跡)
最寄地 茨城県東茨城郡城里町大字高久403 2020.6.20
登城ルート
2郭北の堀跡
標柱・2郭
道路から見た2郭主郭間の空堀
説明板
主郭・墓地
高久館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 那珂川右岸の段丘に築かれた崖端城となっており、道路の東側に主郭(墓地)と2郭(畑)がある。
空堀が2郭の北に見られ、また主郭と2郭の間に藪と葛に覆われた深い空堀が残っている。主郭と道路を挟んだ南も郭であるが、藪状態であった。
【案内】 城里町大字高久の表記番地の南東の台地が2郭で、その南の墓地が主郭となっている[マップコード188 568 773*51]。墓地に登る車道横に説明板が建てられている。
主郭の墓地には高久氏の家臣助(介)川家の墓があり、墓誌に由来が記されている。
昭和四十八年(1973年)1月20日、城里町の史跡に指定されている。
【歴史】 永仁元年(1293年)常陸大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたと云われる。
鎌倉時代末期、佐竹7代行義の6男馬淵小三郎景義が高久に移り再築し、高久氏を名乗ったという。2代は義有が継いだ。
正長元年(1428年)高久義景は山入与義らが起こした山入一揆に呼応して挙兵し大山城の大山義通と戦って敗れている。
天文十二年(1543年)の陸奥久保田・関山の合戦に於いて、佐竹氏の配下として従軍し、9代義時・10代義貞・その子宮寿丸が討死し、廃城となった。