千本城 (せんぼんじょう)
最寄地 千葉県君津市広岡2093 2015.4.5
千本城 (せんぼんじょう)
最寄地 千葉県君津市広岡2093 2015.4.5
登城ルート(緑線は車道)
千本城跡入口碑
北野神社登り口
堀切
堀切向かいの武器庫
主郭・北野神社
神社裏の曲輪
千本城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 久留里線「上総松丘駅」の東の国道410号線(久留里街道)を北に約180m行った交差点に「千本城跡入口」の石碑(地図)が建てられている。
東に約450m行くと表記番地の東で終点となり、駐車スペースがある[マップコード49 023 617*56]。行き止まりの左登り口に「北野神社」「千本城址」の標識が立てられている。
そこより約250m登って行くと、右に大きな堀切があり、堀切の北の本丸に北野神社が建てられ、「北野神社」の石碑がある。
比高約70mの山頂の神社横に土塁が残り、一段下がった北側に東西約20m南北約60mの細長く広い二の曲輪がある。井戸跡と思われる窪みがある。
曲輪の北、西、は崖となり、東に曲輪がある。南は堀切で区分され(武器庫?)の曲輪がある。
【歴史】 築城時期は不明だが、里見氏初代の里見義実の築城とされ、久留里城の支城である。
天正六年(1578年)五月、里見義弘は佐貫城で死去し、晩年近くまで嗣子が無く、弟(庶子とも)の義頼を養子として後嗣にしていたが、晩年近くに正室(足利晴氏息女)に梅王丸が生まれ、義弘と義頼の関係は悪化した。
義頼は岡本城に在城して梅王丸と対立したが、千本城主の東平安芸守・右馬允(光徳)父子や大多喜城主・正木憲時、造海城主・正木淡路守時盛らは梅王丸を支持した。
天正八年(1580年)四月、里見義頼は東平安芸守らの立て籠もる千本城、久留里城を攻めて降伏させた。
天正十八年(1590年)小田原征伐の後、里見氏は豊臣秀吉によって上総国を没収され安房一国となり、廃城となった。