大宮城 (おおみやじょう)
最寄地 栃木県塩谷郡塩谷町大宮2475 2015.2.1
大宮城 (おおみやじょう)
最寄地 栃木県塩谷郡塩谷町大宮2475 2015.2.1
登城ルート
本丸・碑・説明板
本丸北空堀
二の丸・奥に本丸
二・三の丸間空堀
三の丸跡
4号古墳
大宮城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想・感想】 草木に埋もれているが、よく見ると二の丸に土塁があり、夫々の曲輪の間に空堀が残っている。
周囲を田畑に囲われた比高差20m前後の独立丘陵に築かれた平山城で、入口を間違えなければ登りやすい。
【案内】 「日々輝学園高等学校」(表記番地)の東側道路横に駐車した[マップコード132 869 583*26]。 グランド北側に「西の山古墳群」がありその間の通路を東に行くと、本丸跡がある。
本丸跡は東西約54m南北約45mで北に高台があり、その前に「大宮城本丸跡」の碑、説明板が建てられている。本丸の北に「乾の大堀」がある。
本丸南に二の丸跡があり、グランドとの間に大手虎口がある。二の丸跡の東に空堀で隔てて三の丸跡があり、その東に空堀で隔てて曲輪があり、愛宕神社・甲氏神社が建てられている。東に一段下がって、墓地となっている。
【歴史】 南北朝時代の14世紀前期頃、千葉常胤の孫大須賀嗣胤の孫君島胤時の3男胤景が、宇都宮公綱(宇都宮城第九代城主)により宇都宮北部の守りとして大宮村に封じられ、築城したと云われている。
胤景は地名をとって「大宮兵部丞平胤景」と称して大宮氏の祖となった。観応二年(1351年)上野国那波荘(群馬県伊勢崎市)の合戦で討死した。
また康暦二年(1380年)に宇都宮基綱が小山義政と下野国裳原(宇都宮氏茂原町)で合戦し討死にしたとき、その先手の軍勢に大宮兵部右衛門尉の名が残っている。大宮城には大宮氏の子孫が代々居住して宇都宮氏に仕えた。
『宇都宮孝興廃記』によると、天正十三年(1585年)に大宮城を再建したとあることから、この時に大規模な修築が行われ、現状の堅固なものになったと思われる。
慶長二年(1597年)の『宇都宮家縄寄書抜録』にも、「大宮兵部丞久胤」、「大宮久左衛門重胤」などの名前が見られる。
慶長二年十月十三日(1597年11月22日)主君である宇都宮国綱の改易とともに、廃城となった。『現地説明板』より