志筑城 (しづくじょう) (県の史跡)
最寄地 茨城県かすみがうら市中志筑1069 2016.2.21
志筑城 (しづくじょう) (県の史跡)
最寄地 茨城県かすみがうら市中志筑1069 2016.2.21
校門・説明板
説明板
主郭跡
北側土塁
城址碑
北側腰郭
志筑城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 志築川の南の河岸段丘にあり、表記番地の北向いの旧志筑小学校跡地となっている[マップコード112 373 613*73]。「凱旋」「紀念」と刻まれた門が残っている。
北から西にかけて土塁が見られ、北東下段に腰郭がある。東側に切岸が残っている。
志筑小学校は2011年9月1日、南方約1kmに移転(中志筑2112)した。
昭十年(1935年)11月26日、茨城県の史跡に指定された。
【歴史】 養和元年(1181年)源頼朝の家臣・下河辺政義(後に益戸氏)が、頼朝に叛いた浮島の信太義広を討った功により、茨城南部の地頭となり、この地に築城した。
南北朝時代、5代顕助、国行父子は小田城主治久と共に南朝方に属し、北朝方の石岡の大掾高幹としばしば争った。半年間も戦闘を続けたが、興国二年(1341年)十一月小田城落城の報に接し、翌日6代国行は城を捨てて、一族の小山氏のもとへ走り、その後も南朝方のために忠勤に励んだという。 その後廃城となった。
慶長七年(1602年)佐竹氏の秋田国替えに伴い、出羽国(秋田県千畑町)より当地へ移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となった。
正保二年(1645年)跡地に陣屋を構えて廃藩置県まで本堂氏12代の居城となった。『かすみがうら市教育委員会説明板』より。