荻野山中陣屋 (おぎのやまなかじんや)
所在地 神奈川県厚木市下荻野265 2014.3.19
荻野山中陣屋 (おぎのやまなかじんや)
所在地 神奈川県厚木市下荻野265 2014.3.19
土堤・石垣
山中城址碑(昭和7年)
史跡公園
史跡公園・井戸跡
荻野山中陣屋跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道412号線の「山中城址」交差点より厚木方面の車線(中央分離帯あり)を50mほど南下すると、「山中陣屋跡史跡公園」石碑があり、その先を左折すると駐車場が用意されている[マップコード15 820 160*28]。
南の土堤は良く整備され、城址碑が建てられ、井戸が復元されている。馬場・矢場の在ったあたりが国道412号線上である。
城址碑のところが長屋跡で稲荷神社の南西の畑が御殿跡であった。北側の長屋跡は払い下げられ宅地になっている。公園には河津桜が植えられ、満開であった。
【歴史】 小田原藩第五代藩主大久保忠朝の次男教寛(のりひろ)は、相模国内に6千石で分封され、分家となった。 その後、駿河国駿東郡五千石の加増を受け、1万1千石になり諸侯に列した。
この頃、陣屋は駿河国駿東郡松長村(現在の沼津市)の松長藩内に置いていた。 荻野山中藩となったのは五代教翅(のりのぶ)のときで、天明三年(1783年)陣屋を移した。理由として、参勤交代の費用を抑える狙いもあったとみられている。
陣屋の敷地は約2万㎡に及んだ。北部から南部に延びる低い台地に構え、三方を土塁に囲まれている。敷地の中心に御殿を配し、稲荷神社が鬼門の方角に配された。西側には馬場・矢場があった。
しかし慶応三年(1867年)に薩摩藩の浪士などにより、焼き討ちに遭い焼失してしまった。
跡地のうち3300㎡が「山中陣屋跡史跡公園」として整備され、平成八年(1996年)に開園となった。同公園は、地下の史跡を保護するために盛り土が行われ、地上の構造物は最小限にとどめられている。また、稲荷神社や湧水が同位置に残されている。