久我城 (くがじょう)
最寄地 栃木県鹿沼市下久我920 2021.7.26
久我城 (くがじょう)
最寄地 栃木県鹿沼市下久我920 2021.7.26
登城ルート
常真寺北から入る
2郭南の空堀
2郭・土塁
3郭主郭間の空堀
主郭西の土塁
主郭切岸・2郭間の空堀
久我城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高15m】
【感想】 常真寺背後の丘陵先端に築かれ、主郭、2郭の周囲に深い空堀が良好に残っている。
2郭の西に4郭、その北に3郭、東に2段の郭があり、4郭の西側に空堀が残っている。
主郭は南東部に虎口があり、東側を除く3方に土塁が残っているが、笹薮となっていて見通せなかった。
【案内】 県道280号線より北に行った常真寺(表記番地)に駐車できる[マップコード132 303 501*05]。
本堂北より墓地に向かい、手前を左に登るとフエンス扉がある。開けたその先が2郭西の空堀で、西側に4郭、北に3郭、東に空堀を挟んで主郭がある。
【歴史】 京都の久我大納言清道の子孫(娘)が佐野氏に嫁ぎ、光綱を産んだという。その久我光綱(常真)が天文年間(1532~55年)に久我城を築いたと云われる。
「下野国誌」によると、元亀三年(1572年)五月三日、久我光綱は唐沢山城佐野氏の救援に向かったが、壬生義雄との合戦において討死した。
光綱の死後久我城は家臣が守っていたが、天正十五年(1587年)、皆川広照軍に攻められ、落城したという。