三ノ倉城 (さんのくらじょう) (栗崎城)
最寄地 群馬県高崎市倉渕町三ノ倉574 2021.1.21 1.28
三ノ倉城 (さんのくらじょう) (栗崎城)
最寄地 群馬県高崎市倉渕町三ノ倉574 2021.1.21 1.28
登城ルート
全透院
南民家横の電気柵から登る
鉄塔東の堀切
城跡北東の堀切・城跡
主郭・土塁
北西の帯郭
三ノ倉城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 倉渕町三ノ倉の全透院北東背後の山頂に築かれている。
鉄塔の東に浅い堀切があり、鉄塔の北西に堀切がよく残っている。主郭は東西に細長く土塁が残っており、北西側と東側に帯郭が見られる。
【案内】 国道406号線の一つ東の道に面した全透院(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード705 276 791*68]。
全透院境内の南に電気柵(素手で掴まない限り、服に触れても感電はしない)があり、民家手前から鉄塔管理道が付いている(地図)。
鉄塔の北西に堀切、主郭があり、北側を除く三方に土塁が巡り、中央に虎口がある。北西に帯郭、鉄塔の先に浅い堀切がある。
南方の国道横にお抱え刀工「権田住政重」屋敷跡がある。
【歴史】 延徳元年(1489年)木部新九郎は全透院の前身を開き、この頃すでに三ノ倉城が築かれていたと考えられる。
木部氏の後は、手子丸城主浦野氏(のち大戸氏)の所領となった。天正十年(1582年)武田氏が滅亡すると、北条氏の家臣小笠原播磨守が在城した。
天正十八年(1590年)家康の関東移封後、三河大沼城主松平近正が5千石を賜り三ノ倉城に移った。
慶長五年(1600年)関が原の戦いで、松平近正は伏見城に籠城し、西軍の攻撃を受けて落城、鳥居元忠と共に討死した。
家督を継いだ松平一生は、父の功により1万石に加増され下野国板橋へ転封となり(板橋陣屋)、三ノ倉城は廃城となった。