越畑城 (おっぱたじょう)
所在地 埼玉県比企郡嵐山町越畑 2015.1.24
越畑城 (おっぱたじょう)
所在地 埼玉県比企郡嵐山町越畑 2015.1.24
登城ルート
城趾碑
本丸跡
二の丸・愛宕神社
越畑城本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 関越自動車道が城跡本丸を貫通し本丸の大部分は消滅した。関越自動車道「嵐山小川IC」より県道11号線の関越自動車道下を東に、直ぐ左折北に行き電波塔付近より林道「大木入線」を西に行く。
関越自動車道の陸橋(愛宕橋)階段前の北、関越自動車道のフエンス東に「越畑城趾之碑」の石碑(稲村坦元撰文)が移設されている[マップコード 91 861 443*6 ](地図)。
陸橋を渡り、階段を登って、北約70mの最高所に本丸跡がある(地図)。藪化した西に僅かに土塁が残り、東側は関越自動車道建設の為、削られ消滅している。
本丸跡の南側に階段を登ると、愛宕神社の建つ二の丸跡がある。
【歴史】 戦国時代、山内上杉氏の武将荘氏の平山城であり、のち後北条氏に属した。
城趾碑裏面の『撰文・越畑城阯の記』は以下の通り。
「本城は荘山城守秀俊の築く所。西鎌倉街道に臨み北高見を経て鉢形深谷に達し南菅谷を過ぎ松山川越に到るべし。城地高峻にして嶮岨空涅塁阯歴々として存し実に北武の要害たり。
荘氏は武蔵七党児玉氏に出で、庄権守弘高庄太郎家長等義朝に仕へ功名あり。家長五代の孫四郎泰家、五郎為久、泰家に子太郎弘長等亦建武中興の際の新田義貞に従ひ勲功ありしも、南風競わず即ち新座郡橋戸に退き郷士となる。
戦国の世に及びて弘長三代に裔、(荘)秀俊山城守と称し、永享十年(1438年)管領上杉憲実に分倍河原の戦いに従ひ軍功に依り、地を比企郡内に賜り当城を築いて居住す。其子左近将監秀政越畑の南杉山に支城を営み城址今尚在り。
爾後秀光、秀忠等相継いて居り山内上杉・北条氏に属し戦場に馳す。行秀に至って式部少輔と称し北条家宰たり。大平に及びて子孫橋戸及び足立郡新会に居り専ら地を拓きて祖先の祭祀を絶たず」。