松井田城 (まついだじょう) (諏訪城・小屋城・霞ヶ城・堅田城)
所在地 群馬県安中市松井田町高梨子 2013.12.11 2017.3.10
松井田城 (まついだじょう) (諏訪城・小屋城・霞ヶ城・堅田城)
所在地 群馬県安中市松井田町高梨子 2013.12.11 2017.3.10
登城ルート
水の手
連続竪堀
大手門跡・石垣
左本丸・堀切・右馬出
本丸跡
二の丸堀切
二の丸跡・土塁
松井田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【感想】 水の手は沢をせき止めて城兵の飲料としたもので、余り流れていなかった。
大手門の前を北西に行くと、堀切や連続竪堀がよく残っている。本丸の虚空蔵菩薩の建つ所は一段高く、櫓台と思われる。東西に郭を連ね連郭式の山城で、規模は300m以上に及んでいる。
【案内】 国道18号線バイパスの「松井田城跡」標識のある交差点より北に折れ、1㎞行った大きなカーブの三つ目に「城山林道」入口がある(地図)。
そこを左折して登ると、駐車場がある[マップコード247 845 536*10]。
駐車場西の登城路ををゆくと堀切、門跡がある。北西に行くと、堀切や連続竪堀がよく残っている。
上り詰めると堀切があり、東に本丸がある。駐車場より比高約80mの城山頂上に本丸、虚空蔵菩薩がある。
堀切の西に馬出、堀切、二の丸曲輪があり北側に土塁が残っている。また二の丸の西端の櫓台から妙義山が望める。
【歴史】 築城時期ははっきりしないが、永禄はじめには、既にこの地には城が存在しており、安中忠親の松井田西城と諏訪氏の諏訪城があった。
長享元年(1487年)に安中忠親が城主としてあり、その子・忠清が榎下城に移ったという。その後、諏訪氏が西城に入っており、諏訪城の名で永禄四年に武田信玄の攻撃を受けている。
諏訪氏の後は、再び安中氏が松井田を領したらしく、永禄元年(1558年)頃安中忠清の子・忠政が安中城を築城したが、その際に忠政は子・忠成を安中に置き、自身は松井田城を改修し居城としたという。安中氏の行動は武田信玄の西上州進出に対抗したものであり、この時本格的に整備されたと考えられる。
永禄七年(1564年)、松井田城は武田氏の攻勢で開城し、武田方のものとなり、城主安中忠政は自害したとも降伏したとも伝わる。
天正十年(1582年)、武田滅亡直後に後北条氏が松井田を占拠するが、すぐに織田信長方の滝川一益軍に奪取された。
しかし同年六月二日の本能寺の変後、六月十八、十九日の神流川の戦いで一益が後北条氏に破れ上州から撤兵すると、松井田城は後北条氏が再び占領し、城主には大道寺政繁が入った。後北条氏は天正壬午の乱において信州進出を果たせず、碓氷峠が後北条領国の境界になったため、政繁は松井田城を大改修している。現在残る遺構はこの改修後のものである。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを中心とする北国勢が松井田城を攻撃した。しかし数千の兵が籠る松井田城は三月二十日の総攻撃でも落城せず、持久戦が行われることになった。
この結果、約一ヵ月後の四月二十二日に城代大道寺政繁は降伏し、松井田城は豊臣側に明け渡され、廃城となった。