相去城 (あいさりじょう) (楢山城・鶴野館)
最寄地 岩手県北上市相去町寺前沢21 2018.4.20
相去城 (あいさりじょう) (楢山城・鶴野館)
最寄地 岩手県北上市相去町寺前沢21 2018.4.20
登城ルート(緑線は車道)
洞泉寺・城跡標柱
竪空堀
鐘撞堂
主郭・空堀(奥)
西側空堀
西側2、3条目の空堀
相去城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 北上川右岸の標高94mの丘陵に築かれている。南東側に腰郭があり、そこからL字形の幅広の空堀がよく残っている。
西側には他にやや細い空堀が2条残っている。こちらは一部見られるが大方草木に覆われている。
【案内】 国道4号線より洞泉寺(表記番地)門柱を通って石畳を入り、参詣用駐車場が利用できる[マップコード108 282 490*71](地図)。
駐車場に「相去城跡」の標柱と説明板が建てられている。北側の道を登ると鐘撞堂の建つ主郭がある。
西側は杉林となり、その西側から南側にL字形の空堀が残っている。さらに西側にはやや細い2条の空堀があり、都合3重の空堀となっている。
【歴史】 創建時期は不明だが、相去城、高前檀館を中心に相去一帯が相去清三郎の支配下にあったと伝えられている。
永徳二年(1382年)の鬼柳氏に関わる文書に相去壱岐守の署名が見える。
明徳二年(1391年)、それまで江刺郡に属していた会左利郷(相去郷)が和賀(鬼柳)伊賀入道の領地となった。
文明二年(1470年)、和賀・江刺両氏の間に兵乱があり、翌年には和賀・葛西両氏が相去の地で合戦に及ぶなど、相去は和賀氏の南の境界となっていた。
永禄八年(1565年)胆沢西根城主・新渡戸摂津守頼長と伊沢(柏山)伊勢守の対立で頼長が相去城で自刃した。『現地説明板』より。