福原城 (ふくはらじょう) (福原要害城・臥牛城)
最寄地 栃木県大田原市福原94-6 2016.3.5
福原城 (ふくはらじょう) (福原要害城・臥牛城)
最寄地 栃木県大田原市福原94-6 2016.3.5
登城ルート(緑は館跡)
福原館跡
要害城跡
2郭西空堀
2郭跡・土塁
主郭西空堀
主郭・土塁
福原城 主郭跡 (地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 福原館跡(福原城跡)は県道285号線の北に位置し、広大な農地となっている(地図)。
北側は崖となり箒川に落ちている。東側と西側は大きく削られ天然(あるいは人工)の堀となっている。
要害城(詰城)跡の場所がわからず、付近を探していたら、偶然通りかかった近所の人に、写真の竹と杉のこんもりした城山だと親切に教えてもらった。
県道285号線の表記番地の南側の墓地の下に駐車できる[マップコード121 173 647*45](地図)。登リ口は特にないが、左手の沢を渡って、取り付き直登する。
比高30mほど登ると、平坦地が2つあり、その上に竪堀・横堀を備えた2郭があり、土塁が残っている。
空堀で隔てた南東に一段高く主郭がある。こちらは放置され藪化がひどく南側の土塁が見える程度である。土塁の南東端は一段高く櫓台と思われる。主郭の南側から西側にかけて、深さ4~6mの空堀がよく残っている。
【歴史】 福原城は、那須資隆の4男福原久隆が築いた。久隆の弟之隆が那須氏を継ぐと、福原城は那須氏の拠点となった。
応永二十一年(1414年)頃、那須資氏の跡を継いだ那須資之と、その弟で沢村氏を継いだ沢村五郎資重が不和となり、那須氏は上那須家・下那須家に分裂した。
上那須家の資之は応永二十一(1414年)年、下那須家資重の沢村城を攻めた。資重は逃れて、稲積城を修復して居住し、応永二十五(1418年)烏山城を築き移った。
応永二十三年(1416年)上杉禅秀の乱が起きると、福原城主・那須資之は禅秀に与した。乱後に、関東公方・足利持氏によって禅秀に与した城が攻められ、福原城も二度攻撃された。
その後、永正十一年(1514年)下那須家資房に攻められ、上那須家資永が自害し、上那須氏が滅亡するまでの居城であった。
慶長十五年(1610年)、那須資景が那須藩を立藩し、城の一角に福原陣屋を築いた。
天和元年(1681年)、三代藩主那須資弥の時、烏山に転封となり廃城となた。