山形城 (やまがたじょう) (霞城・霞ヶ城・吉字城) (国の史跡・日本100名城10)
最寄地 山形県山形市大手町1−61 2012.10.4 2013.11.7
山形城 (やまがたじょう) (霞城・霞ヶ城・吉字城) (国の史跡・日本100名城10)
最寄地 山形県山形市大手町1−61 2012.10.4 2013.11.7
大手門・大手橋
外堀
大手門二の丸側
内堀・土塁
最上義光騎馬像
南大手門
山形城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 「最上義光歴史館」地下の大手町駐車場(表記番地)が、大手門の東にある[マップコード62 010 188*32]。仙山線・山形新幹線を跨ぐ大手橋を渡ると、復元(平成三年)されて間もない二の丸東大手門がある。
高麗門を入り、その先に「最上義光騎馬像」があり、本丸石垣、土塁、堀がある。四囲は堀と石垣が良く残り、東西南北に門が四ヶ所在った。
二の丸に野球場、児童文化センター、野外音楽堂、ソフトボール場、桜の園、体育館、武道館、山形市郷土館、山形県立博物館がある。 堀の外側に回の字状に在った三の丸は市街地となり南北1600m東西1200mと広大な面積を有していた。
昭和六十一年(1986年)5月28日国の史跡に指定され、昭和六十二年(1987年)7月9日、追加指定された。
昭和六十一年(1986年) 国の史跡に指定された際、江戸末期の資料に基づいて、東追手門や本丸の復元が行われた。平成三年(1991年) 二の丸東大手門が復元された。この門の規模は江戸城の城門に匹敵する。
平成十八年(2006年) 本丸の正門に当たる一文字門に架かる大手橋が復元された。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(10番)に選定された。
平成二十五年(2013年) 本丸大手門枡形内の高麗門及び土塀が復元された。
【歴史】 1356年(南朝:正平十一年、北朝:延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部、翌年初期の山形城が築城された。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった。
最上義光(よしあき)が慶長年間に城郭を拡大、城下町を整備し、関ヶ原の功で、出羽57万石の本城となった。
元和八年(1622年)八月二十一日最上義俊がお 家騒動で改易され、近江大森藩(大森陣屋)1万石に転封された(寛永八年(1631年)に死去)。
その後、鳥居忠政が入封し、改修が行われた。鳥居氏2代の後、保科正之、松平直基、松平忠弘、奥平昌能、堀田正仲、松平直矩、松平氏2代、堀田氏3代、大給松平氏1代、天領、秋元氏4代(1767~1845年)、水野氏2代と11家18名の藩主の変更があった。
石高も減少し江戸中期以降は城の維持が困難になり幕末の時には、本丸は更地で御殿も二の丸に置かれ三の丸の西半分は田畑となった。
明治時代、城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致した。歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられた。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利用された。
日露戦争凱旋を記念して歩兵三十二連隊の帰還将兵が、明治三十九年(1906年)に周囲にソメイヨシノを植林し、以降桜の名所となった。