宮森城 (みやもりじょう) (上館)
最寄地 福島県二本松市小浜殿原43 2015.6.10
宮森城 (みやもりじょう) (上館)
最寄地 福島県二本松市小浜殿原43 2015.6.10
登城ルート
模擬門
神社石段・南の郭
腰郭・石垣
神社・城址碑・土塁
かっか石
腹切石
御前清水
宮森城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道40号線と県道118号線の交差点より南に約450m行った地点を西に入ると、「かっか石」がある(地図)。
また交差点より東に150m行った交差点を南に橋を渡って約150m行くと「腹切石」がある(地図)。その南100mのT字路交差点に「宮森城址」の標識があり、南西に行くと「御前清水」がある(地図)。
更に100mほど行くと城址入口があり[マップコード129 466 246*76]、北に石畳の登り道があり、模擬門が建てられている。
石段の左手に空堀があり、石段を登ると本丸跡で、神社が建てられ社殿後ろに土塁が残り、礎石と思われる人工の石が点在している。
主郭には「宮森城趾」「宮森家祖大内氏城趾」の石碑が建てられ、東側は草地となり、草に埋もれて礎石が残る。
【歴史】 応永三年(1396年)宇都宮氏広が奥州管領に任じられこの地に築城し、四本松(しおのまつ)城と称した。その後、文明三年(1471年)大河内修理が改修し宮森城と改称した。
天正八年(1580年)大内定綱が、この地に移り東安達(塩松)地方を治めたが、天正十三年(1585年)九月、伊達政宗との戦いに敗れ会津蘆名氏の元へ逃れた。
政宗の父輝宗がここに在城したが、同年十月八日和議の御礼のために訪れた二本松城主畠山義継に拉致され、阿武隈河畔粟の須で最期を遂げた。
【かっか石由来】 永禄十二年(1569年)宮森城落城の時、稚児と共に逃れた母親が囚われ、大内備前の側室になることを強いられたが、死を決して応じなかったため、大内備前は貞節の堅さに感銘し、釈放した。母親は石の傍らに庵を設け、夫(大河内備中守)と稚児の冥福を祈り生涯を終えた。
【腹切石由来】 永禄十二年(1569年)宮森城主大河内備中守(石橋家四天王の筆頭)が大内備前、石川弾正、寺坂信濃(四天王)等に攻められ滅亡した(永禄の変)。その折り、備中の甥大河内四郎は、太刀を振って敵忠を切り抜けて城に入ろうとしたが、大手の敵に入ることが出来ず、搦め手に向かったが、追いすがる敵に進退極まり、この石の上に登り腹を掻き切って討死した。宗四郎若干22歳の時であった。
【御前清水由来】 天正十三年(1585年)領主大内備前守定綱を攻め滅ぼして、当地を領した伊達政宗は小浜城に、父輝宗は宮森城に居城した。同年十月、輝宗は二本松城主畠山義継に拉致され、粟の須(現二本松市)で悲壮な最期を遂げた。この清水は輝宗公御前清水として聞こえ、歴代城主の御用水であった。