江戸崎城 (えどさきじょう)
所在地 茨城県稲敷市江戸崎甲3194 2016.2.11
江戸崎城 (えどさきじょう)
所在地 茨城県稲敷市江戸崎甲3194 2016.2.11
説明板
南の郭・説明板
堀跡
本丸跡・稲荷神社
本丸北側土塁
北側腰郭
2の丸跡 ・江戸崎小学校
江戸崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高20m】
【案内・感想】 江戸崎小学校(表記番地)が2の丸で、北の一段低い郭跡に鹿島神社があり、土塁が残っている。南の高台に本丸がある。
「荒宿十字路」交差点より、南に約180m行き、江戸崎小学校正門を過ぎ、南に約100m行く。
右折して堀跡の坂を登ると南(左)に2段になった郭があり、低い方の郭に説明板が建てられ、駐車場になっている。
城山と呼ばれている主郭は北にあり、民家、右手に稲荷神社がある。民家の前に、「江戸崎高等学校発祥之地」の石碑が建てられている。北は緩い勾配で高くなり、北端には土塁が残っている。
その北に腰郭があり、更に5mほど低い2の丸跡(地図)に江戸崎小学校体育館が建てられ、運動場となっている。
【歴史】 土岐原氏は、美濃国の守護土岐氏の一族で、定親―師親―師秀―秀成―憲秀―景秀と受け継がれ秀成の時、信太(しだ)庄支配の上杉氏代官として来往した。
築城年代は、室町時代初期(応永~永享年間 (1394~1441年))の頃と推定されている。土岐系図には、土岐原景秀が江戸崎城を修築したと記されている。その後、景成-治頼-治英(はるふさ)-治綱と5代の居城となった。
永正年間(1504~21年)の頃、小田氏との紛争や内紛によって一時江戸崎城を失ったが、その後龍ヶ崎城を足掛かりに奪還した。天文十二年(1543年)頃、土岐原氏は土岐氏に姓を変えている。
永禄十二年(1569年)小田氏の衰退と入れ替わるように信太庄・東条庄における支配域を拡大し、県南 (稲敷市・美浦村・阿見町・牛久市東部・龍ヶ崎市など)の広大な地を支配する国人領主となった。
しかし、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの余波を受け、土岐氏は没落した。その後、芦名盛重が4万5千石の領主として入城し、慶長七年(1602年)秋田に去るまで居城とした。その後廃城となった。『江戸崎町教育委員会説明板』より。