高擶城 (たかだまじょう) (高擶陣屋)
所在地 山形県天童市高擶北2132 2016.6.10 8.7
高擶城 (たかだまじょう) (高擶陣屋)
所在地 山形県天童市高擶北2132 2016.6.10 8.7
楯之内公民館にある案内板
楯之内公民館・城址碑・説明板
城址碑
神社北・楯の内
陣屋跡・あかつき公園
秋元藩陣屋説明板
館林藩陣屋跡地碑
高擶城 本丸跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 皇太神社(表記番地)の北一帯が楯の内と呼ばれ、本丸跡である[マップコード62 281 637*04](地図)。本丸跡は宅地化で遺構は消滅している。
防火水槽横を西に入ると、陣屋跡が「あかつき公園」となっている。入り口近くに「秋元藩高擶陣屋跡」の説明板、「館林藩陣屋跡地」の石碑、「高擶城幾乗六〇〇年記念碑」の石碑が建てられている。
東方の「楯之内公民館」(天童市高擶北2099)に「高擶城址」の石碑、高擶城址説明板が建てられている(地図) 。
【歴史】 築城年代は定かではないが、応永年間(1394~1428年)、最上氏二代斯波直家の四男義直によって築かれたとされる。
その後、天童氏の支城として、天童頼基によって現在遺構図に見られる城郭が築かれた。
天正十二年(1584年)最上義光に攻められ、天童城が落城すると、高擶城も最上氏の所領となった。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、宮内内蔵丞が4千石で城主となった。
元和年間には楯岡城主楯岡光直の家老斎藤伊予守が五千五百石で城主となった。 しかし、元和八年(1622年)お家騒動により最上氏のが易となり、廃城となった。
山形藩主秋元志朝(ゆきとも)は、弘化二年(1845年)上野国館林城へと転封となり、飛び領地として残された4万石余を管理するために弘化三年(1846年)秋元志朝によって二の丸西に陣屋が築かれた。
陣屋は明治維新まで維持された。