大多喜城 (おおたきじょう) (小田喜城・大滝城) (県の史跡)
所在地 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 2012.8.28 2016.12.8
大多喜城 (おおたきじょう) (小田喜城・大滝城) (県の史跡)
所在地 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481 2012.8.28 2016.12.8
二の丸公園の梵鐘
本丸土塁
模擬天守
大井戸
大多喜高校の薬医門
大多喜城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 「県立大多喜高校」南道路を西へ行き右折、東100mに駐車場が用意されている[マップコード130 103 832*78](地図・てぬぐい茶屋)。
その東の大多喜水道前を過ぎ、大手道を登ると途中に空堀の一部が残っている。二の丸公園があり、階段を登った曲輪に、梵鐘がある。
本丸には、土塁が一部残り、三層四階の天守が模擬再建され[県立中央博物館大多喜分館](表記番地)として利用されている。
二の丸跡の大多喜高校に天保十三年(1842年)の火災後建てられた二の丸御殿の薬医門が移築されている。また、本丸へ通じる坂道の手前に、大井戸が保存されている。
【歴史】 大永元年(1521年)真里谷城主真里谷(まりやつ)信清によって築城された。
信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文十三年(1544年)里見氏の武将正木時茂により奪われ、以後時茂・信茂・憲時の三代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。
だが、天正九年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。
天正十八年(1590年)豊富秀吉により惣無事令違反を理由に里見氏が上総を没収され、家康に与えられ、配下の本多忠勝が城主となり大多喜藩十万石が成立した。
忠勝は里見氏の北上を阻止するために突貫工事を行い、三層四階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、麓に城下町の建設を行った。
元和五年(1619年)藩主阿部正次が転封、廃藩となり城は荒廃した。
寛文十一年(1671年)阿部正春が1万6千石で入城以降、青山家2代、再び阿部家2代、稲垣家1代を経て元禄十六年(1703年)大河内松平家が藩主として入り、以降9代が居城した。特に大きな改修はなされず、明治維新まで続いた。
大河内松平家8代正和(まさとも)の時、天保十三年(1842年)には天守が焼失した。
明治三年(1868年)十二月に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという。
昭和五十年(1975年)に城跡に天保六年(1835年)の図面を基にして天守が再建されて、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。