横田中丸城 (よこたなかまるじょう) (中丸城・立岩城)
最寄地 福島県大沼郡金山町横田中丸331 2016.10.7
横田中丸城 (よこたなかまるじょう) (中丸城・立岩城)
最寄地 福島県大沼郡金山町横田中丸331 2016.10.7
登城ルート
登り口
2郭
虎口手前の空堀
主郭と摩利支天
二重堀切
南背後の2番目の堀切
横田中丸城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高220m】
【案内・感想】 国道252号線に面した表記番地民家の東に中丸城跡の説明板が建てられている[マップコード604 504 788*32](地図)。
民家との間に登り口があり、少し登ると、只見線の線路(水害で休止中)があり、越えて杉林の中に入る。
右に踏跡を辿り、なだらかな平坦地(3郭)がある。左に大きく曲がって延々と登り、堀道に石がせり出した狭間を抜け少し行くと、ゆるく傾斜した2郭がある。
更に登ると、右手に空堀があり虎口に至る。標高546.7m比高約220mの要害山頂上の主郭は30m四方ほどで中央に摩利支天(城主の軍神)が祀られている。
背後に、二重堀切があり、1番目は木々で覆われ浅いが、2番目は深く明瞭な堀切となっている。
金山町の史跡となっている。
【歴史】 文治五年(1189年)源頼朝の奥州藤原氏の征討に際し、従軍した山ノ内経俊はその恩賞として、金山谷、伊北郷など880貫文の地を与えられたと伝えられる。
しかし、実際に入部したのは応永十年(1403年)ころの10代目の子孫通俊と云われる。要害山に山城を築き、中丸城と称し、領地支配の本拠とした。 さらに、一族の領地に七騎党城、重臣に六固城と村落に51の持柵を築いた。
天正十七年(1589年)伊達政宗の会津侵攻で、葦名氏は摺上原の合戦で滅亡したが、時の領主山ノ内氏勝は中丸城や中山城、水窪城に拠って、翌十八年まで頑強に抵抗した。
だが、豊臣秀吉の会津下向によって氏勝は所領を没収され、越後に去り、波乱の生涯を終えた。(南蒲原郡下田村の延命寺(現、三条市下大浦1175)に氏勝の墓、三大寺(現、三条市上大浦1093)に位牌が現在も安置されている)