福島城 (ふくしまじょう)
最寄地 青森県五所川原市相内実取287−1058 2014.8.3 2015.7.5
福島城 (ふくしまじょう)
最寄地 青森県五所川原市相内実取287−1058 2014.8.3 2015.7.5
登城ルート
外堀跡
外郭跡・駐車場
内郭櫓門・橋・内堀
水堀・土塁
櫓門横の土塁
内郭跡
福島城跡の看板
福島城 内郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 十三湖の北岸に面する標高約20mの台地上にある。面積は約62万㎡である。外郭とその中にある内郭で構成される。
外郭は一辺が約1㎞の逆三角形(頂点が十三湖に突き出た)をしており、土塁と外堀が国道南に残っている。
内郭は約200m四方の方形で、土塁で囲まれその外側に堀を巡らせ、櫓門のある北辺は特に良く残っている。
【案内】 国道339号線に沿って、道の駅「十三湖」(表記番地)西1㎞に外堀跡が残る(地図)。
その西160mに外郭跡の駐車場があり[マップコード517 164 388*55](地図)、その西610mの国道より[マップコード517 164 513*66]、 南に140m入った所に内郭跡の櫓門・橋が復元され土塁や堀が残っている。
【歴史】 平安時代後期の十世紀後半に築かれたとみられる。十世紀後半から十一世紀までの土師器(はじき)が城域から出土するが、これは北緯40度以北の東北地方北部が中央政権の影響下から離れて、北海道で九世紀に始まった擦文(さつもん)土器文化圏に合流していた時期にあたる。
同時代に東北地方北部から北海道渡島半島南部にかけて住居群を堀で囲む防御性集落が盛んに造られていることから、福島城は擦文文化人が何らかの軍事上の情勢に対応して築いた城であると考えられる。
内郭は室町時代前期の十四世紀後半から十五世紀前半に築かれた可能性が高い。福島城から南西3㎞の位置にある十三湊(とさみなと)が最も栄えた時期にあたる。
「十三湊新城記」に記された、安倍(安藤)貞季が正和年間(1312~17年)に築いたとする新城を福島城とする見解がある。
ただし、平成十七年(2005年)から平成二十一年(2009年)に行われた青森県教育委員会の発掘調査で当城跡の内郭南東部より、板塀で区画された中世の武家屋敷跡が発見されており、安藤(安東)氏の居城であったと判明した。
嘉吉三年(1443年)南部義政の弟政盛は安藤(安東)盛季に招かれ福島城を訪れた時、急襲して福島城を、奪取した。盛季は唐川城に逃れ、その後柴崎城に退却し、更に蝦夷地の渡島勝山(勝山館)へ落ちのびた。
盛季没後の下国安藤氏は、康季が文安二年(1445年)に津軽に攻め入るものの戦陣で病死し、その子の義季も享徳二年(1453年)南部氏との戦闘に敗れ自害した。
盛季直系は断絶し、盛季の甥の子である政季が下国家を継いだ。