百目木城 (どうめきじょう)
所在地 福島県二本松市百目木 2020.4.12
百目木城 (どうめきじょう)
所在地 福島県二本松市百目木 2020.4.12
登城ルート
南西側登り口
西郭南西側の大堀切
西郭虎口
西郭に建つ城址碑
西郭
北郭遠望
東郭遠望
百目木城 西郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【感想】 二本松市百目木の集落北側にある標高451mの丘陵に築かれている。
主郭は屈折した広い平坦地で、西側と南側に段があり、堀切や大堀切がよく残っている。
【案内】 国道459号線北の保育所跡の崖に説明板が建てられている(地図)。
南西の介護施設「笑実の郷」前に城址碑が建てられ、登り口がある[マップコード129 418 569*22](地図)。ここから登ると西郭西の虎口に通じている。
古峰神社の参道からも登れる[マップコード129 419 607*75](地図)。
西郭南西側に平段があり南側に大堀切がある。また、西郭中央の岩場前に「石川家百目木城」の碑が建てられている。
谷を挟んで東側に東郭があり(地図)、西郭の北に北郭がある(地図)。遠目に見た範囲だが藪化しているようだ。
【歴史】 永禄年間(1558~70年)から天正十六年(1588年)にかけて石川弾正光昌と父摂津守が居城とし、百目木・田沢周辺を支配していた。
永禄十一年(1568年)石川弾正は小浜城主・大内定綱らと共に主家の四本松城主・石橋氏を相馬に追放した。
天正十三年(1585年)九月、伊達政宗と大内定綱の戦いの際、伊達方として戦功があり小手森城を与えられた。しかし小浜城主となった政宗の家臣・白石若狭の支配下におかれ、これを不服として天正十六年(1588年)五月、相馬氏を後ろ盾として政宗に反乱を起こした。
石川弾正はこの戦いで相馬に敗走し、その後会津の上杉氏に仕えるなどして百目木に戻ったと云われる。
名目津壇は、政宗と石川氏の戦いで戦死した者を葬った処と伝えられる。