宇津峰城 (うづみねじょう) (雲水峰城) (国の史跡)
所在地 福島県郡山市田村町谷田川樋ノ口 2014.4.11
宇津峰城 (うづみねじょう) (雲水峰城) (国の史跡)
所在地 福島県郡山市田村町谷田川樋ノ口 2014.4.11
登城ルート
駐車場と登り口
城跡碑
東北勤皇忠烈之阯碑
四阿・虎口
曲輪・神社
鳥居・土塁・ 曲輪
宇津峰城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 標高677m比高約80mの宇津峰にある。国道49号線の県道144号線との交差点西(加登屋酒店)を南に折れ道なりに3㎞ほど行くと、行き止まりとなり、宇津峰の北の駐車場に着く[マップコード61 476 413*71](地図)。
そこから徒歩で100mほど行くと御井戸の清水があり、さらに200mほど急な径を登ると、「雲水峰城趾」に着く。
城跡の東に「東北勤皇忠烈之阯」があり西に土塁で囲まれた曲輪があり「守永親王」等を祀る9つの祠がある。更に西約80mに星神社が祀られている。頂上からは北西に郡山市街、西に須賀川市街や福島空港などが望める。
昭和六年(1931年)7月31日、国の史跡に指定された。
【歴史】 南北朝時代初期に宇津峰山麓を支配していた守山城主・田村宗季(庄司)は奥羽地方の南朝側における有力武将の一人であった。当時の奥羽地方でも他地域の例に漏れず南朝と北朝の総力戦が至るところで発生していた。
しかし、奥羽南朝軍の中心的存在であった北畠顕家(あきいえ)や結城宗広が戦死あるいは病死すると、宗広の子・結城親朝の寝返りなどもあって情勢は徐々に北朝有利となっていった。
1364年(貞治三年・正平元年)、北朝方は南朝方の立て籠もる霊山城などの奥羽各諸城を一斉攻撃し、宇津峯城もこのとき落城した。
しかし、観応の擾乱の余波が奥羽にも及んで北朝方が分裂すると、奥羽の南朝軍は勢力を挽回し、1351年(観応二年・正平六年)の冬にはついに奥羽地方の支配拠点である多賀国府を奪回した。
ところが、翌年初めには再び北朝に国府を占領されてしまい、南朝方の北畠顕信は後醍醐天皇の孫・守永親王(宇津峯宮)を奉じて再び宇津峯に立て籠もった。宇津峯城は要害堅固であり、また、田村庄司一族の奮戦もあって、北朝方をなかなか寄せ付けなかった。しかし、やはり時の勢いには勝てず、南朝方の拠点も徐々に落とされていった。
1353年(文和二年・正平八年)四月、北朝軍は宇津峯城の一斉攻撃に入り、五月四日、宇津峯はついに陥落した。
守永親王と顕信は出羽、さらには北奥羽へ逃れ、奥羽地方の南北朝の戦いは、この戦いを最後に事実上終結した。また、田村庄司一族も戦いに敗れたことで勢力は大幅に失われ、やがては奥羽の歴史舞台から消えていった。
なお、戦国時代に三春城を本拠として田村庄一帯を治めた田村氏はこの田村庄司家とは同族関係にない。