人首城 (ひとかべじょう) (人首要害)
最寄地 岩手県奥州市江刺米里本小路42 2016.6.5
人首城 (ひとかべじょう) (人首要害)
最寄地 岩手県奥州市江刺米里本小路42 2016.6.5
登城ルート(緑線は車道)
大手門跡・碑
本丸跡・招魂社
空堀
二の丸跡・土塁・四阿
二の丸跡・土塁・義魂碑
人首御番所跡
人首城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 県道8号線「盛街道」に沿って武家屋敷があったとされ、「人首御番所跡」がある(地図)。
その先に「人首城跡入口」の標柱が建てられ、反対側の民家壁に説明板が掲示されている[マップコード645 217 593*05] 。
そこから東に約450m行くと表記番地前に「人首城跡入口」の標柱が建てられ[マップコード645 218 460*24]、登ってゆくと大手門跡があり、水道施設の横に駐車できる。
西に行った東西50m南北46mほどの本丸跡に招魂社が祀られ説明板が建てられている。沼辺氏以前は二の丸とされる。
本丸の南に一段下がって東西に延びる腰郭は沼辺氏のお倉屋敷である。当日は草が茂っていた。
東の空堀で隔てて、一段と高く東西36m南北50mほどの二の丸跡があり、周囲に土塁が残る。南端に四阿が建てられ、土塁上には「忠魂碑」「消防士義魂碑」など4基の石碑が建てられている。沼辺氏以前は本丸とされる。
【歴史】 築城者、築城年代ともにはっきりしない。古くは葛西氏統治の時代、岩谷堂城主江刺三河守重胤の次男人首如清(ひとかべじょせい)と称する武士が住んでいた。その後、天正年間安蘇修理が居城した。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏が没落し、城主安蘇修理は気仙沼方面へ逃れた。
慶長十一年(1606年)仙台伊達藩の一族沼辺玄蕃重仲が、現柴田郡新沼より、仙台領北辺の守りのため移封された。
以後10代沼辺武房が、明治維新を迎えるまで263年間統治した。江戸時代には要害扱いとなった(伊達21要害の一つ)。