西城城 (にしじょうじょう) (西城)
最寄地 埼玉県熊谷市西城1186 2017.11.28
西城城 (にしじょうじょう) (西城)
最寄地 埼玉県熊谷市西城1186 2017.11.28
登城ルート(赤丸は本丸跡碑/緑線は車道)
西城本丸跡の石碑
西城本丸跡の石碑
西城本丸跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 福川の南にあり、現在は水田や微高地の畑地となり、本丸跡と云われる一角に西城区長の撰文による石碑が建てられている。
遺構は消滅しており、周辺には深谷葱の畑が広がっている。
【案内】 「めぬま有機センター」(表記番地)南を流れる川の北側道路を西約200m、北へ農道を約100m行くと、左側の微高地に「西城本丸跡」と刻まれた立派な石碑(平成10年12月建之)が建てられている[マップコード34 107 083*83]。
【歴史】 天禄年間(970~73年)太政大臣藤原伊尹(これただ)の子・義孝の次男藤原忠基が武蔵守となり荘園を開拓したのが始まりという。
忠基の曾孫道宗は幡羅郡に住み幡羅太郎を名乗り荘園を拡大した。そして長元五年(1032年)この地に館(西城)を構えた。さらに、隣村の上須戸村に砦(東城)を築き道宗の長男助高も居住していた。
前九年の役で軍功のあった斎藤実遠が長井庄を与えられたため、道宗の子・助高は城を引き渡し、隣接する太田荘成田郷上之堀に居を移し、成田太夫を称し成田氏の祖となった。
助高の長男助広が成田氏を継ぎ、次男行隆が別府氏、三男高長が奈良氏、四男助実が玉井氏を名乗って分家した。
実遠は長井庄の南端に位置する西城は統治に適さないとして自然堤防上の大我井に館を構えて移った。
その後、西城城は成田氏のものとなり強化され戦国時代まで続いた。
戦国時代、文明十年(1478年)扇谷上杉氏の家宰太田道灌に鉢形城を攻め落とされ、鉢形城を追われた長尾景春が長井六郎を頼り、西城城の支城東城に立て籠もった。その後景春は東城を脱出し秩父地方の城を転々とし、最後に熊倉城を落とされ、古河公方の元へ落ち延びた。『埼玉の城址めぐり・西野博道編』より。