阿波崎城 (あばさきじょう) (県の史跡)
最寄地 茨城県稲敷市阿波崎2187 2015.4.6
阿波崎城 (あばさきじょう) (県の史跡)
最寄地 茨城県稲敷市阿波崎2187 2015.4.6
入口標識・説明板
登城ルート
入口標識・説明板
下段曲輪
主郭
城址碑
南曲輪
阿波崎城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高25m】
【案内・感想】 霞ヶ浦の南、稲敷市の標高27.8mの丘陵に築かれている。
商店(表記番地)の道路横に「阿波崎城跡入口」の標識と説明板が建てられている[マップコード162 095 765*01](地図)。
その西側約100mに駐車場があり、その西の比高約25mの山頂に曲輪がある。天満宮が建てられ、「阿波崎城址」と「准后北畠親房卿城趾」の石碑が建てられている。その南西と南側下段に曲輪がある。参道や曲輪に桜が植えられ、満開であった。
昭和十一年(1936年)11月26日、茨城県の史跡に指定された。
【歴史】 延元三年(1338年)九月、北畠親房は東国において新たな南朝方の軍勢を組織するため、義良親王、宗良親王、結城宗広、北畠顕信らと伊勢国大湊を出帆した。
しかし途中暴風雨に遇い船団は四散し、義良親王らは伊勢へと戻るが、親房の船は常陸国東条庄に漂着し、神宮寺城に入城した。同年十月五日、北朝方の軍勢が押し寄せると、激戦の末神宮寺城は落城した。
次いで親房が阿波崎城に移ると、所々より後詰が参集し、北朝方と戦ったが阿波崎城もほどなく落城し、親房は小田城へと移った。
近郷には「十三塚」や「ほいほい地蔵」などの伝説が遺され、南北朝の争乱で命を落とした郷土の人々のあったことを、今に伝えている。『稲敷市教育委員会説明板』より。