名胡桃城 (なぐるみじょう) (県の史跡)
所在地 群馬県みなかみ町下津3462 2011.10.24 2019.3.24
名胡桃城 (なぐるみじょう) (県の史跡)
所在地 群馬県みなかみ町下津3462 2011.10.24 2019.3.24
馬出し・三の郭
三の郭二の郭間の空堀(2019年)
二の郭(2019年)・建物跡・土塁
本丸手前の空堀(2019年)
本丸跡・城址之碑
笹郭・空堀
般若郭
名胡桃城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 利根川上流の右岸断崖部に位置し、川を挟んで北東に位置する北条氏方の明徳寺城と対峙している。
遺構は馬出し郭・三の郭・二の郭・堀切・本丸・ささ郭と主要な郭が北東に直線に並ぶ連郭式の崖端城で、両側が切り立った天然の要害である。谷を挟んで北西に「般若郭」がある。
8年ぶりに再度訪れて見ると、以前は浅かったと思われる空堀も復元され、二の丸の土塁、建物跡などがよく復元され、説明板が要所要所に設置され分かりやすくなっていた。
【案内】 国道17号線の「名胡桃城址前」交差点のすぐ東に、「名胡桃城址案内所」(表記番地)が建てられ、北の般若郭が駐車場となっている[マップコード183 584 846*86]。
近年の月夜野町教育委員会による発掘調査で、土塁址・三日月堀・虎口・通路・門礎石址・掘立柱建物址などの重要な遺構が多数確認されている。
国道17号線の南西が水の手郭、外郭で宅地などになっている。歴史的には、真田昌幸の沼田城の支城として、また1590年の豊臣秀吉の小田原征伐の誘因となった。
昭和二十四年(1949年)12月20日、群馬県の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期は、伝承によれば室町時代の明応元年(1492年)に沼田城の支城として沼田氏によって築かれたとされている。
上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、天正七年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となった後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として築かれた。昌幸は名胡桃城を内応させ、ここを足がかりとして沼田城を攻略する。
天正十年(1582年)の武田氏の滅亡後、天正壬午の乱を経て独立した真田氏と後北条氏が沼田・吾妻領をめぐって争う。名胡桃城は沼田城の有力な支城として、沼田領に攻め入ってきた北条の軍を退けた。
天正十七年(1589年)豊臣秀吉の調停で沼田城を含む利根沼田の三分の二は後北条氏になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り三分の1はそのまま真田領として安堵された。
名胡桃城には鈴木重則が城代として入り、同年十一月、沼田城代となった北条方の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取した(名胡桃城事件)。
これが惣無事令に違反したとして豊富秀吉の怒りを買い、翌、天正十八年(1590年)に小田原征伐が行われた。これによって後北条氏は没落し、真田氏の沼田領が安堵されると、名胡桃城は廃城となった。