源経基館 (みなもとつねもとやかた) (県の史跡)
最寄地 埼玉県鴻巣市大間1030 2015.12.19
源経基館 (みなもとつねもとやかた) (県の史跡)
最寄地 埼玉県鴻巣市大間1030 2015.12.19
空堀・碑
土塁・空堀
館跡・土塁
西側腰郭
源経基館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県立鴻巣高校(表記番地)グランドの南に駐車スペースがあり、館跡碑が建てられている[マップコード14 495 553*37]。
東西約95m南北約85mで西側の低湿地に面する部分を除く3方に空堀が残り・土塁がよく残っている。
北側は県立鴻巣高校グランドに接している。北西角に説明板が建てられている。
昭和十六年(1941年)3月31日、埼玉県の史跡に指定された。
【歴史】 源経基(みなもとのつねもと)は、清和天皇の皇子貞純(さだすみ)親王の子で、第6子に当たることから六孫王(ろくそんのう)と称した。弓道の道に長じ、武勇をもって知られた。
源姓を賜って源朝臣(みなもとのあそん)を称したが、天慶元年(938年)武蔵介となって関東に下り、この地に館を構えたと伝えられている。同時に興世王(おきよおう)も武蔵権守として赴任し、この2人と足立郡司武蔵武芝との間で騒乱が起こり、平将門が調停に介入した。この事件は、その後起きた平将門の乱の契機となった。
天慶三年(940年)、平将門の乱が起き、藤原秀郷・平貞盛らの奮戦によって平定された。乱後経基は武蔵守となり、その子の満仲も武蔵権守に任じられた。
この2代の間に清和源氏は武蔵国へ勢力を浸透させたが、経基の時代の勢力は坂東八平氏や嵯峨源氏などに遠く及ばなかった。その後、頼光・義家・義朝・頼朝と続いている。