三崎城 (みさきじょう) (新井城)
所在地 神奈川県三浦市城山町5 2014.2.4
三崎城 (みさきじょう) (新井城)
所在地 神奈川県三浦市城山町5 2014.2.4
三崎城跡碑・説明板
三崎城跡碑・説明板・土塁
校庭・土塁
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 旧三浦市立三崎中学校(表記番地)の敷地が主郭であり、校門横に土塁があり、「三崎城跡」の石碑、由来看板、かすれた縄張り図が建てられている[マップコード394 194 808*71](地図)。校舎は市役所分館として使われている。その西の一段低い三浦市役所敷地が二郭と思われる。
訪れた一ヶ月後、平成二十六年(2014年)3月、移転し閉校となった。4月より「三崎中学校」と「上原中学校」を統合し、新校名「三崎中学校」(三浦市三崎町六合45)として発足した。
【歴史】 三崎城は相模湾を望む丘陵に地の利をを得て、土塁、空堀が幾重にも組み合わされた中世の山城で、鎌倉時代後期の三浦氏宗家滅亡後に相模三浦氏を興した佐原盛時が築城したとされているが詳細は不明である。
その頃三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円に領域を拡大し、三浦氏の居城新井城の重要な支城であるとともに、水軍の根拠地であった。(新井城については相模三浦氏時代には三崎城として単一の城を構成しており、後北条氏が同城の海側の部分を改築して独立した水軍城砦とした時に旧城である新井城と新城である三崎城に分けられたと考えられている)。
永正十三年(1516年)七月十一日三浦義同(よしあつ)が北条早雲に敗れ新井城(油壷)で滅ぶとき、三崎城もまた落城した。その際囲みを破った城兵は城ケ島に逃れなお抵抗を続けたという。
その後、盛時(早雲)によって大規模な改築が行われて安房の里見氏に対する備えとした。新井・三崎の両城は何度か里見氏によって攻め落とされて三浦半島南部が里見領になった時期もある。
後に盛時(早雲)の孫の北条氏康がこの地を奪還すると、息子の氏規を三崎城主とした。
その後北条氏は三崎城に兵を置いて支配した。今に北条山の地名が残る。天正十八年(1590年)秀吉の小田原征伐により北条氏の滅亡に伴い三崎城は廃城となった。