金沢城 (かねざわじょう) (金沢柵)(かねざわのき)
所在地 秋田県横手市金沢安本館4 2013.8.2 2018.4.21
金沢城 (かねざわじょう) (金沢柵)(かねざわのき)
所在地 秋田県横手市金沢安本館4 2013.8.2 2018.4.21
登城ルート(緑線は車道)
二の丸跡・金沢八幡宮
兵糧倉跡・本丸切岸
本丸跡
本丸と北の丸間の空堀
北の丸跡・土俵
西の丸入口
西の丸中間の堀切
陣館遺跡
金沢城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 現在は金沢公園(金沢八幡宮)となっている[マップコード138 444 407*60]。
駐車場から左(北西)に登ると、二の丸跡に金沢八幡宮(表記番地)があり、北の丸跡(地図)には相撲の土俵がある。
右(南東)に行くと空堀に隔てられ、兵糧倉跡、本丸跡と並んでいる。西側に西の丸(安本館)があり、細長い郭の中央に堀切が残っている。
四周が断崖絶壁の岩山で天然の要害をなし、数多くの塹壕をつくり堅固な城であったといわれる。
【陣館遺跡】 国道13号線に面して「後三年合戦資料館」(横手市金沢中野根小屋102−4)があり、その北東に私有地の小山が陣館遺跡である(地図)(立ち入りは出来ない)。
金沢柵は後三年合戦最終決戦の地であり、200年以上前から探索されてきた。陣館遺跡の発掘調査の結果、後三年合戦前後のロクロ土師器や権力者しか持ちえない内耳鉄鍋などが出土し、金沢柵の有力推定地となっている。
平成二十九年(2017年)10月13日、大鳥井山遺跡附陣館遺跡として追加指定された。
【歴史】 清原氏の居城であり、後三年の役((1083~87年)清原氏の兄弟争い)で清原家衡・武衡が籠城し抗戦した。
寛治元年(1087年)清原清衡(32歳)に源義家が手を貸し、兵糧攻めで勝利したが、清衡の妻子を殺された。この戦いの後、清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復し奥州藤原氏の祖となり、江刺郡豊田館に居を構えた。
長禄二年(1458年)には十三代南部守行の子・金沢右京亮が入り文明二年(1470年)には小野寺氏の家臣・金沢権十郎などの居城となった。
慶長七年(1602年)佐竹義宣の秋田入封に伴い居城候補となったが、久保田城に決まり、金沢城は廃城となった。