鳥海柵 (とのみのさく) (弥三郎館) (国の史跡)
所在地 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根原添下 2014.8.16
鳥海柵 (とのみのさく) (弥三郎館) (国の史跡)
所在地 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根原添下 2014.8.16
説明案内板
北側柵跡・掘立建物跡
堀
南側柵跡・説明板
鳥海柵跡碑
鳥海柵跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道4号線水沢東バイパス「古寺」交差点より西に160m行くと南に「鳥海柵跡」駐車場があり、案内板が建てられている[マップコード108 074 512*23]。
広大な柵跡は、深い谷(開析谷)で大きく二つに分けられている。東西約300m南北約500mに規模を持ち東西にのびる堀で区画されている。
柵跡西側を東北自動車道が南北に貫通しており、その横を南下すると供花のある標柱(文字は読めない)、「安倍宗任」の説明板がある(地図)。
堀の南側の郭は水田となり東側に「鳥海柵跡」の碑が建てられている。
【歴史】 11世紀に奥六郡(伊沢(胆沢)・江刺・和我(和賀)・斯波(紫波)・稗縫(稗貫))を支配していた安倍氏一族が築いた十二柵の一つである。
主は安倍氏当主頼時の三男の安倍宗任(むねとう)と云われている。鎮守府胆沢城に近く、安倍氏一族の勢力拡大に伴い陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の率いる国府軍との間で前九年合戦(1051~62年)が起こった。
安倍頼時(頼良改名)は、源頼義の勧誘に応じ寝返った安倍富忠と戦い、流れ矢に当たり、この柵に帰り亡くなった。
合戦は9年間続き、康平五年(1062年)九月十一日に出羽の豪族清原氏が国府軍に加勢したことで、安倍氏は厨川柵で滅び、安倍宗任は捕えられ九州へ流された。この戦いは『陸奥話記』『前九年合戦絵詞』などに記されている。
北上川と胆沢川に囲まれ、自然の沢による谷(開析谷)や段丘崖を巧みに利用し、人口の堀や柵列などの工作物で囲まれた軍事拠点であった。
平成二十五年(2013年)10月17日、国の史跡に指定された。