武蔵松山城 (むさしまつやまじょう) (松山城・武州松山城) (国の史跡)
最寄地 埼玉県比企郡吉見町大字南吉見5 2013.9.23 2013.12.29
武蔵松山城 (むさしまつやまじょう) (松山城・武州松山城) (国の史跡)
最寄地 埼玉県比企郡吉見町大字南吉見5 2013.9.23 2013.12.29
説明板
登城ルート
本曲輪・石碑
空堀
兵糧倉跡
二ノ曲輪
三ノ曲輪
四ノ曲輪東の空堀
四ノ曲輪
武蔵松山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高30m】
【案内・感想】 市野川の東、吉見百穴の南の比高約30mの丘陵に築かれており、當選寺(表記番地)南に登り口がある[マップコード14 395 891*14](地図)。
比高約30mの遊歩道を登ると本曲輪に出、神社の跡らしい基礎が残り、北の櫓台に「松山城趾碑」の石碑が建てられている。
東に行くと空堀を挟んで二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪、北に惣曲輪があり、また本曲輪の北には兵糧倉跡、道路に面して岩室観音堂が建っている。
平成二十年(2008年)3月28日「比企城館跡群」(菅谷館跡・松山城跡・杉山城跡・小倉城跡)の一つとして、国の史跡に追加指定された。
【歴史】 築城は諸説があり、鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間(1394~1428年)初期の上田左衛門尉築城説、応永二十三年(1416年)頃の上田上野介築城説などがある。
上田氏は扇谷上杉氏に属し、公方足利氏、、山内上杉氏との対立の舞台となった。天文六年(1537年)には河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、さらにその余勢を駆った松山城も攻撃を受けたが、城主難波田憲重らの活躍で撃退に成功した(松山城風流合戦)。
この結果、松山城は河越城を失った上杉朝定の居城となり、威信をかけた拡張工事が行なわれた。
天文十四年(1545年)、河越夜戦での河越城奪還の失敗と朝定および難波田憲重の敗死によって扇谷上杉氏が滅亡すると、松山城は北条氏康の手に渡った。永禄四年(1561年)、上杉謙信が奪取して岩槻城主の太田資正を城代にした。
しかし、永禄六年(1563年)に北条氏康と武田信玄の連合軍の攻撃の前に再び陥落、北条氏のもとに戻った。この合戦の影響が房総にも飛び火して第2次国府台合戦へと発展した。
この合戦以後松山城は一時北条氏の直轄となったものの、元亀年間(1570~73年)以後は一貫して北条氏家臣団に組み込まれた上田氏の居城となり、上田氏は松山領と呼ばれる比企地方一帯を支配下に置いた。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、城主・上田憲定は小田原城に籠城したため、代わって山田直安以下約2,300名が松山城に籠城、前田利家・上杉景勝の軍を主力とする大軍に包囲されて落城し、歴代の城主上田氏は滅亡した。
その後、松平家広の居城となったが、慶長六年(1601年)後を継いだ弟忠頼が浜松に転封となり、廃城となった。