皆川城 (みながわじょう) (ほら貝城)
所在地 栃木県栃木市皆川城内町699 2015.1.7 2017.4.22
皆川城 (みながわじょう) (ほら貝城)
所在地 栃木県栃木市皆川城内町699 2015.1.7 2017.4.22
居館跡
居館跡西側土塁・空堀
南側から頂上を見る
竪堀
井戸(見晴し平下)
西の丸
見はらし平
本丸・展望台・城址碑
皆川城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【感想】 城主の居館跡は皆川地区公民館敷地となっており、西側に土塁、空堀が残っている。
杉は切り払われ標高147m比高約80mの頂上までよく見え、住民の寄付で桜が山全体に植えられている。
山腹には腰曲輪、帯曲輪が階段状にあり、ほら貝城ともいわれる。四阿のある休憩広場の下に大規模な竪堀があり、その下に横堀が残っている。頂上からの眺望は抜群で、ソメイヨシノは散っていたが八重桜は満開であった。
【案内】 「皆川地区公民館」(表記番地)の北に位置し、麓には「雷電神社」、「厳島神社」が建てられている。公民館駐車場が用意されている[マップコード64 832 040*84]。
東の山頂に本丸があり展望台、「皆川城址」の石碑、由来説明板、方位説明板が建てられている。眼下を東北自動車道が通り、山間の集落が望め、遠く筑波山が望める。
西の山に「西の丸」があり、中間の鞍部に二の丸・「見はらし平」の広い平坦部がある。その南に一段下がって、井戸跡、池がが残っている。
本丸跡は平成二十二年(2010年)度に発掘調査が行われ、小規模建物の柱穴群と巾2m程度の低い土塁が確認され「かわらけ」や「銭貨(永楽通宝・宣徳通宝・寛永通宝)」などが出土している。 又、西方の金剛寺(皆川城内町1947)には皆川城歴代の墓がある。
【歴史】 室町時代の永享の乱後十五世紀中ごろ(1450年頃)会津田島から移り住み、皆川氏を名乗った長沼秀宗が築城したとされている。
戦国時代になると、北の鹿沼城を攻略した宇都宮氏の圧力を受け、従属と離反を繰り返した。
天正四年(1576年)上杉謙信は1万5千の兵をもって佐野宗綱の唐沢山城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた。
天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原攻めに伴い、皆川広照は、北条氏に与して小田原城に籠城したため、皆川城は包囲され落城した。
しかし、広照は小田原落城寸前に脱出して徳川家康の陣所に駆け込み、家康の取り成しによって豊臣秀吉に所領を安堵された。
天正十九年(1591年)新たに栃木城を築いて移り、皆川城は廃城となった。