神宮寺城 (じんぐうじじょう) (県の史跡)
最寄地 茨城県稲敷市神宮寺829-17 2016.2.11
神宮寺城 (じんぐうじじょう) (県の史跡)
最寄地 茨城県稲敷市神宮寺829-17 2016.2.11
説明板
説明板・城跡標柱
2郭・土塁
空堀
主郭・土塁
北畠准后唱義之処碑
神宮寺城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道125号線より県道107号線に入り、西に約400m行った表記番地の東に「神宮寺城跡」碑、説明板が建てられている。県道南側の空き地に駐車できる。
空堀で囲まれた平城の主郭があり、東に2郭がある。主郭は土塁がめぐらされ、北東隅の土塁上に「北畠准后唱義之処」(大正四年)の石碑が建てられている。
昭和十年(1935年)11月26日、茨城県の史跡に指定された。
【歴史】 延元元年(1336年)十二月、後醍醐天皇は吉野に遷られ、政権は南朝(宮方)と北朝(武家方)とに分かれ、いわゆる南北朝時代となった。
延元三年(1338年)九月、南朝方の北畠親房は義良(のりなが:後の後村上天皇)親王、宗良(むねなが)親王を奉じ、伊勢大湊から海路陸奥に向かう途中遠州灘にて暴風に遭い、兵船は四散した。
辛うじて常陸東条浦に漂着した親房の手勢は、南朝方の地頭東条氏に迎えられ、神宮寺城に拠った。
まもなく北朝方の常陸守護佐竹義篤・大掾高幹・烟田(かまた)時幹・鹿島幹寛・宮崎幹顕らの軍勢に攻められ、十月五日落城した。
親房は阿波崎城に逃れ、更に小田城、関城、大宝城へと転戦した。『稲敷市教育委員会説明板』より。