長瀞城 (ながとろじょう) (雁城) (かりがねじょう)
所在地 山形県東根市長瀞1314 2016.6.10
長瀞城 (ながとろじょう) (雁城) (かりがねじょう)
所在地 山形県東根市長瀞1314 2016.6.10
城跡碑
陣屋跡碑
一の堀
二の堀(北東)
禅会寺山門
長源寺山門
長瀞城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道13号線「東根温泉口」より約470m西へ行くと、「長瀞城址」の石碑、「長瀞ふるさと案内図」の大きな看板が建てられている[マップコード62 735 618*45]。
直進し100mほど行くと、陣屋跡の碑、更に100m行くと一の堀跡碑が建てられ(地図)、埋められて道路となった横に堀跡が僅かに残っている。
北東から北西にかけて、二の堀がよく残っている。特に北西側には、内側に土塁が残る。
北西の禅会寺(長瀞654)山門と、南の長源寺(長瀞4888)山門は両方とも移築大手門である。
【歴史】 鎌倉時代建長年間に西根氏によって築城されたという。
その後、最上氏の所領となり、4代目当主最上満家が隠居所として利用した。その後は最上満種や最上満宗の居城になったとも、長瀞左衛門尉が本拠を構えたともいわれる。
本格的に城郭が整備されるのは最上義光が入城してからである。元和八年(1622年)に最上氏が改易されると山県藩の所領となり、鳥居氏、保科氏と城主が代わった。寛永二十年(1643年)、保科氏の転封に伴い、長瀞村は天領となった。
一辺が114mの方形の本丸跡に、寛文二年(1662年)幕府代官所が置かれた。
寛政十年(1798年)米津通政が武州久喜より入部し、長瀞藩一万二千石の居城となり、米津氏は無城大名のため陣屋と称した。
その後、4代目政敏の時、戊辰戦争で薩長軍の戦火に遭い、居館すべて焼失した。明治以後、民間に払い下げられ、現在に至る。内堀に囲まれた本丸跡は「楯の内」という。